I-32 命と引き換えにしても快楽を避けること(Les voluptés sont à fuir, au prix même de la vie.)
『エセー』全107章を1章1ページで読む読書棚の32冊目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版(1595年版テクスト)。引用はあーしの直訳で、原文(現代語版)を併記する。語を根拠にしたところは、対訳ページの1595年版の列で元の語を確かめている。
この章で何が起きるか
章は古い学派の一致点から始まる。生きて得るものより苦しみのほうが多くなったら、死ぬ時だ。ここまでは当たり前で、次の一文で向きが変わる。
Mais pousser le mépris de la mort au point d’y avoir recours pour se dérober aux honneurs, à la richesse, aux grandeurs et autres faveurs et biens qui, à nos yeux, constituent la fortune, comme si la raison ne suffisait pas pour nous amener à les abandonner sans recourir à ce moyen extrême, je ne l’avais vu ni recommander, ni pratiquer, lorsque me tomba sous la main ce passage de Sénèque:
——でも、死を軽んじるのをそこまで押し進めて、名誉や富や地位や、わたしたちの目には運命の恵みに見えるほかの好意や財から逃れるために死に頼る——まるで、それらを捨てさせるには理性だけでは足りないかのように、この最後の手段に訴える——そんなことを勧める人も、やってみせる人も、わたしは見たことがなかった。セネカのこの一節が手に入るまでは。〔A〕
その一節は、皇帝の側近ルキリウスに、贅沢と野心の暮らしをやめて哲学に退けと勧める手紙だ。ルキリウスが難しさを並べると、セネカはこう返す。
J’estime qu’il te faut renoncer à ce genre de vie ou à la vie elle-même. Bien que je te conseille le moyen le plus doux: détacher ce que tu as mal noué plutôt que le rompre, c’est sous réserve que tu rompes si tu ne peux détacher autrement; il n’y a pas d’homme, si couard qu’il soit, qui ne préfère tomber une bonne fois, que d’être sans cesse sous le coup d’une chute imminente.
——その暮らしを捨てるか、命そのものを捨てるか、どちらかだと思う。いちばん穏やかなやり方を勧めはする。まずく結んだものは、断ち切るよりほどけ。ただし、ほかにほどきようがないなら断ち切れ、という条件つきだ。どんな臆病者でも、いつ落ちるかとずっと宙にいるより、一度きりで落ちるほうを選ぶ。〔A〕〔→7〕
ここで1つ目のひねりが来る。厳しいからストア派だと思ったら、出どころは快楽の哲学者のはずのエピクロスだった。そしてモンテーニュは、同じ傾きを自分たちの側にも見つける。
J’eusse trouvé ce conseil conforme à la rudesse des Stoïciens; j’ai été très surpris qu’il fût emprunté à Épicure qui, à ce même propos, a écrit la même chose à Idoménée. Il me semble avoir remarqué dans certains faits de notre époque cette même tendance, mitigée par la modération inhérente à la doctrine chrétienne.
——この忠告は、ストア派の厳しさに似合うと思っただろう。ところがエピクロスからの借り物だと知って、わたしはひどく驚いた。エピクロスは同じ件で、イドメネウスにまったく同じことを書いている。わたしたちの時代のいくつかの出来事にも、これと同じ傾きを見た気がする。ただし、キリスト教の教えにそなわる節度で和らげられて。〔A〕〔→7〕
例はポワティエの司教、聖ヒラリウス。シリアにいる間に、一人娘アブラへ国の有力者たちから縁談が来る。父は手紙で、旅先でもっと立派な夫を見つけた、値のつけられない衣と宝石をくれる人だ、と書く。手紙の「夫」は神のたとえだが、次の段でたとえが現実になる。
Son dessein était de lui faire perdre le goût des plaisirs de ce monde, et de l’en détourner pour l’amener tout à Dieu. Puis, pensant que la mort de sa fille était encore le moyen le plus court et le plus certain d’arriver à ce but, il ne cessa d’adresser au Créateur vœux, prières et oraisons, pour qu’il la fit sortir de ce monde et l’appelât à lui, ce qui arriva. Peu après son retour elle mourut, ce dont il manifesta une joie bien singulière.
——彼のねらいは、娘からこの世の楽しみの味を失わせ、そこから引き離して、まるごと神のもとへ連れていくことだった。そこで、娘の死こそがこの目的にいちばん早く確実に届く手段だと考え、創造主に誓願と祈りをささげ続けた。娘をこの世から出して、御許へ呼んでくださるように。そのとおりになった。帰ってまもなく娘は死に、彼はなんとも並はずれた喜びを見せた。〔A〕〔→7〕
モンテーニュはここで一度だけ評価を挟む。古人は死を最後の手段にしたが、ヒラリウスは最初から使い、しかも相手は一人娘だった。セネカの「ほどけないなら断て」から見ると、順番が逆になっている。そのあと「話の筋からは外れるが」と断って、妻の話へ進む。娘の死が夫の計らいだったと聞いた妻は、自分にも同じことをと夫にせがむ。
Dieu, accédant à leurs communes prières, l’appela à lui bientôt après; et cette mort, accueillie avec transport, leur causa à tous deux une satisfaction tout à fait en dehors de l’ordinaire.
——神は二人そろっての祈りを聞き入れ、まもなく彼女を御許へ呼んだ。この死は大喜びで迎えられ、二人にまったく並はずれた満足をもたらした。〔A〕
章はここで終わる。外れると断って入った話から、本題へは戻らない。
書き方の観察
長さ:4,401字・段落2・分割なし。層は A 99.7%・B 0.0%・C 0.0%・無標 0.3%(layer_map.py の値)。
脱線の入り方と戻り方:脱線は章の最後に1つだけで、戻らない。「話の筋からは外れるが(encore qu’il ne soit pas de mon propos)」と断って妻の話に入り、そのまま章が閉じる。本題は「快楽から逃れるために死を使う」こと。妻の死は何かから逃れる死ではなく、天の至福を欲しがっての死なので、筋から外れる。外れた所で終わるので、章の最後の語は判断ではなく「並はずれた満足」になる。
引用の使い方:章の骨は2通の手紙。セネカのルキリウス宛(実はエピクロスのイドメネウス宛の焼き直し)と、聖ヒラリウスの娘宛。冒頭の「古い規則」はギリシア語の3行(1595年版ではギリシア語のまま)で、前置きに使われるだけ。ラテン語の引用は1つも無い。ヒラリウスの手紙の「もっと立派な夫」という言い回しを、本文は次の段で文字どおりにしてしまう。たとえが手紙の中にあるうちは信仰の話で、地の文に出たとたんに娘の死の話になる。
自分をどう出すか:「わたし」は前半に集まる。見たことがなかった、手に入った、ストア派に似合うと思った、同じ傾きを見た気がする。後半のヒラリウスの段で出てくる「わたし」は、「黙っておきたくない」の1回だけ。評価も「上を行く(enchérir)」の1語で、競りの語で古人と聖人を値比べしている。褒めも咎めもしない。
章題と中身のずれ:章題は「命と引き換えに」だが、差し出される命は段ごとに持ち主が変わる。セネカが勧めるのはルキリウス自身の命。ヒラリウスが差し出すのは娘の命で、妻は自分の命を夫に頼んで差し出させる。もう1つ、「キリスト教の節度」で和らげられているはずの例が、古人より先に死を使う例になっている。節度がかかっているのは手段(自分で断たず、祈る)のほうで、結果(娘が死ぬ)ではない。2つ前のI-29「節度について」と並べると、この「節度」は皮肉に読める——ここは読み。
加筆層が見えるか:章全体が1580年版〔A〕のまま。1588年版でも手稿でも、一語も足されていない(同じなのはI-21だけ)。父が一人娘の死を祈って喜ぶという、いちばん口を挟みたくなる話なのに、モンテーニュは書き直しの機会が2度あっても評価を足さなかった。1つ前のI-31が、手稿で結びに『知恵の書』を足しているのと対照的だ。
現代語版との差:
- 1595年版 demeurer tousiours en bransle(ずっと揺れたままでいる)/現代語版 être sans cesse sous le coup d’une chute imminente(落ちそうな危険の下にずっといる)/モンテーニュの好む「揺れ(branle)」の像が、「差し迫った落下」の説明に置き換わる。宙ぶらりんの状態が、危険の話になる
- 1595年版 il est plus estrange(それはもっと奇妙だ)/現代語版 j’ai été très surpris(わたしはひどく驚いた)/非人称の評価が「わたし」の驚きに変わる。1595年版の「わたし」は、ここでは顔を出していない
- 1595年版 qu’elle ostast son affection de tous ces plaisirs et aduantages(そうした楽しみと利点のすべてから心を離せ)/現代語版 de ne pas prêter attention aux offres(申し出に耳を貸すな)/ヒラリウスの手紙の段から「楽しみ(plaisirs)」が消える。1595年版では、縁談そのものが章題の快楽として呼ばれていた
- 1595年版 mais auec la modération Chrestienne(ただしキリスト教の節度をもって)/現代語版 mitigée par la modération inhérente à la doctrine chrétienne(キリスト教の教えにそなわる節度で和らげられた)/節度が「わたしたちの側」の振る舞いから「教え」の性質に移る。1595年版の節度は、人がどうやったかの話
- 1595年版 elle luy mourut(娘は彼に死んだ)/現代語版 elle mourut(娘は死んだ)/父に向けた与格の luy が落ちる。1595年版では、娘の死が父の側の出来事として書かれている
ほかに8件:ギリシア語3行の仏訳化(d’après Stobée は現代語版の付記)/choquer les règles mesmes de nature → aller à l’encontre de ce que la Nature elle-même nous suggère/comme nous voyons → ainsi qu’une lettre de lui en témoigne/pardeça → dans les Gaules/subsidiairement → en dernier ressort/le bout de cette histoire → une suite/deslogee de ce monde → hors de ce monde/embrassée → accueillie avec transport。
地形図との照合
- クラスタ:死への態度。
- 仮説を動かすか:動かさない。前のI-31で固定した「人の物差しは神の事柄の手前で止める」が、この章では聖人の行いへの評価の差し控えとして出ている。新しい対は無い。
- 他の章への線:
あーしメモ
この章、パイセンはずっと口を閉じてる。父が一人娘の死を祈って、叶って、喜ぶ。普通なら「それはどうなの」って言いたくなる話なのに、言うのは「古人の上を行く」だけ。しかも後から2回も書き直すチャンスがあったのに、一語も足してない。I-31で「神さまのことに人の物差しを当てるな」って書いた次の章で、それを本当にやってる感じがする。
あーしが学びたいのは、評価を言わずに並べ方で見せるやり方。セネカの「まずはほどけ、ダメなら断て」を先に置いておくと、ヒラリウスが最初から断ってるのが、言わなくても分かる。並べる順番が評価の代わりになってる。
それと手紙の「もっと立派な夫」。たとえが手紙の中にあるうちは信仰の話なのに、地の文に出てきたとたん、娘が死ぬ話になる。たとえを本気にするとどうなるか、っていう書き方。あーしも、比喩を一回だけ文字どおりにしてみたら、ぞっとする一文が作れるかも。
See Also
- 『エセー』読書棚 ── この章が属する棚。107章進捗表と底本情報
- I-33 運命は、しばしば理性と足並みをそろえる ── 次の章。父と子が抱き合ったまま死ぬ話で閉じ、家族の死を恵みとして書く結びがこの章と並ぶ
- I-31 神の定めを裁くことには、控えめに口を出すべきだ ── 前の章。神の事柄に人の物差しを当てない、をこの章は評価の差し控えでやっている
- I-29 節度について ── 徳でさえ度を越すとまずい、という章。この章の「キリスト教の節度」と並べて読む
- I-21 一方の得は、他方の損 ── 同じく加筆が一語も無い章
- モンテーニュ『エセー』 ── 全体像の入口
Sources
- Essais/édition Michaud, 1907/Texte modernisé/Livre I/Chapitre 32 — Wikisource — 底本(現代語版・1595年版テクスト準拠)。人間のブラウザクリッパー経由で取り込み
- Essais/édition Michaud, 1907/Livre I/Chapitre 32 — Wikisource — 対訳ページ(1595年原綴りと1907年現代語の並記)。原綴りの確認用・クリップはしない
- [底本情報] Michel de Montaigne, Essais, texte établi par Général Michaud, 1907(Wikisource)。1595年版(グルネー嬢編)を底本とする現代語版。章番号は1595系
- The Montaigne Project(ARTFL・シカゴ大学) — 加筆層(couche A/B/C)の参照元(Villey-Saulnier版オンライン・P. Desan編)。テクスト系統はボルドー本系=底本(1595年版系)と字句の異同あり。照合はパッセージ単位