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I-31 神の定めを裁くことには、控えめに口を出すべきだ(Il faut apporter beaucoup de circonspection, quand on se mêle d’émettre un jugement sur les décrets de la Providence.)

『エセー』全107章を1章1ページで読む読書棚の31冊目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版(1595年版テクスト)。引用はあーしの直訳で、原文(現代語版)を併記する。語を根拠にしたところは、対訳ページの1595年版の列で元の語を確かめている。

この章で何が起きるか

章は、いかさまがどこで育つかから始まる。

L’inconnu est le véritable champ d’action de l’imposture; outre que son étrangeté même lui donne crédit, comme il échappe aux raisons ordinaires, nous n’avons pas moyen de le combattre. C’est pourquoi, dit Platon, il est bien plus aisé de se faire accepter quand on parle de choses se rapportant aux dieux, que lorsqu’il s’agit de questions afférentes aux hommes; l’ignorance des auditeurs, dans le premier cas, ouvre une belle et large carrière et donne toute latitude pour produire des allégations que nous ne pouvons vérifier. Il en résulte que rien ne trouve davantage créance que ce qu’on connaît le moins, et qu’il n’y a personne pour parler avec plus d’assurance comme ceux qui nous content des fables:

——いかさまの本当の畑は、知られていないことだ。見慣れなさがそれだけで信用を生むうえに、ふだんの理屈の手が届かないので、わたしたちには打ち返す手段がない。だからプラトンも言う。神々にかかわることを話すほうが、人間にかかわる問題を話すより、ずっとすんなり受け入れてもらえる。神々の話なら、聞き手が知らないおかげで広々とした走路が開け、確かめようのない主張をいくらでも持ち出せるのだ、と。そこから、いちばん知られていないことほど信じられ、作り話を聞かせる者ほど自信たっぷりに話す者はいない、ということになる。〔A→C→A〕

その「作り話を聞かせる者」の列が続く。錬金術師、占い師、占星術師、手相見、医者。モンテーニュはこの列の最後に、「言ってよければ」と断って、神の意図をいつも解釈し点検してみせる人たちを足す。

Ils ont beau être balancés d’un côté à l’autre, d’Orient en Occident, ils n’en continuent pas moins à jouer le même jeu et, du même crayon, peindre blanc et noir.

——出来事に東へ西へと振り回されても、彼らは同じ遊びを続け、同じ鉛筆で白も黒も描く。〔A〕〔→7〕

次に、インドのある民の習わし。戦いで負けると、自分たちの神である太陽に、公の場で許しを乞う。キリスト教徒なら、すべては神から来ると信じ、どんな顔で来ても感謝して受けとれば足りる。そのうえで、モンテーニュは向きを変える。「でも、わたしが良くないと思うのは」、企ての成功で信仰を支えようとする今のやり方だ。民がそういう論法に慣れると、運が逆に回ったとき信仰が揺らぐ。例は進行中の宗教戦争。ラ・ロシュ=ラベイユの勝ちを神のお墨付きとして騒いだ側が、ジャルナックとモンコントゥールの負けは、父が子に与える罰だと言いわけする。

mais si le peuple, auquel on tient un pareil langage, n’est pas à notre complète dévotion, il arrive aisément à comprendre qu’on cherche à tirer double profit d’une même chose et que c’est de la même bouche souffler le chaud et le froid;

——でも、そう言い聞かされる民が、すっかりこちらの言いなりでないかぎり、同じ一つのことから二重に得をしようとしている、同じ口で熱い息も冷たい息も吹いている、とたやすく気づく。〔A〕〔→7〕

トルコ人に勝った海戦も見事だったが、神は別のときには同じほどの負けをわたしたちに見せた。要するに、神のことを自分の能力だけで測れば、損なわずにはすまない。ここでモンテーニュは、相手の論法を退けずに、自分で一歩先まで延ばしてみせる。異端の頭目アリウスと教皇レオは、どちらも腹痛で討論の席を立ち、便所で死んだ。これを神罰の印と言いたいなら、便所で殺されたヘリオガバルスも足せる。そして反例が1つ置かれる。

pourrait encore citer à l’appui de sa thèse la mort d’Héliogabale, tué aussi dans des lieux d’aisance; seulement comment alors expliquer pourquoi Irénée eut le même sort?

——……ヘリオガバルスの死も、自説の裏づけに挙げられるだろう。彼も便所で殺されたのだから。だが、それならIrénéeが同じ目にあったことは、どう説明するのか?〔A〕〔→7〕

神はこうして、善人には別の望みが、悪人には別の恐れがあると教えている。この世の幸不幸を、人に見えない考えで配り、わたしたちがそれを都合よく使う手段を取り上げる。人間の理屈でそれを使おうとする者は、証拠を1つ出せば、すぐ反証を2つ返される。これは推論より、挙げられる事実で決まる問題だ。結びは太陽。

Nous sommes obligés de nous contenter de la lumière qu’il plaît au Soleil de nous communiquer par ses rayons; et celui qui, pour en absorber davantage en lui-même, le fixerait avec les yeux, ne devrait pas s’étonner si, en punition de son outrecuidance, il perdait la vue:

——わたしたちは、太陽が光線で分けてくれる光で満足するしかない。もっと多くを取りこもうと太陽を目で見据える者は、思い上がりの罰として目を失っても、驚いてはいけない。〔A〕

最後に『知恵の書』の問い、「人間の誰が神の計らいを知りえようか」が置かれて、章は終わる。

書き方の観察

長さ:5,823字・段落3・分割なし。層は A 66.4%・B 6.8%・C 19.9%・無標 6.9%(layer_map.py の値)。

脱線の入り方と戻り方:脱線らしい脱線は無い。代わりに、2つの「足し方」がある。1つ目は標的の入れ方。いかさま師の列(錬金術師から医者まで)の最後に、「言ってよければ(si i’osois)」で神意の解釈者を足す。章の本当の標的は、列の付け足しとして入ってくる。2つ目は相手の論法の延ばし方。アリウスとレオの死を神罰と読む論法を、モンテーニュは退けずに自分で一歩進め、ヘリオガバルスまで足してやる。延ばしきったところで、Mais quoy ?(でも、なに?)の2語と反例1つで止める。ここまで全部1580年版〔A〕。手稿〔C〕はこの止めのすぐ後ろに、神がなぜ幸不幸をばらばらに配るのかの説明を足した。1580年版では、反例のあと説明なしに太陽のたとえへ飛んでいた。

引用の使い方:ラテン語は2つだけ。ホラティウスの id genus omne(その手の連中みな)が1580年版〔A〕、結びの『知恵の書』が手稿〔C〕。プラトンも手稿〔C〕で、名前と1文だけ。論拠になっているのは権威より時事で、宗教戦争の地名(ラ・ロシュ=ラベイユ、ジャルナック、モンコントゥール)と、トルコ人に勝った海戦だ。

自分をどう出すか:「わたし」は2回、どちらも1580年版〔A〕。1つは「言ってよければ」の留保、もう1つは「わたしが良くないと思うのは、わたしが見ている今のやり方だ(ie trouue mauuais ce que ie voy en vsage)」の断定。留保しながら標的を名指しし、断定は目の前の習わしにだけ向ける。もう1つ、海戦は「ここ数か月(ces mois passez)」のこととして書かれている。ドン・フアン・デ・アウストリアがトルコ艦隊に勝ったのは1571年。この時の印は、1588年版でも1595年版でも直されていない。書いた当時の「わたし」の時間が、そのまま残っている。

章題と中身のずれ:章題は神の定めを「裁く」ことへの戒めだが、中身の大半は、勝ち負けを信仰の宣伝に使う宗教戦争の論法への批判だ。神学の謙虚さの形をとって、党派の言葉を批判している。章題の sobrement(控えめに)は、章自身の書き方にもなっている。標的は「言ってよければ」で入り、結論は太陽のたとえに預けられる。

加筆層が見えるか:章の両端に手が入っている。

冒頭。1580年版は「いかさまの畑は知られていないこと」から Il aduient de là(そこから〜ということになる)へ直接つながっていた。手稿〔C〕がその間にプラトンを挟んだので、「そこから」は今はプラトンを受けて読める。

1588年版〔B〕の加筆は1か所だけで、負けると太陽に許しを乞うインドの民。キリスト教徒の段の直前に置かれた。勝ちを神のお墨付きにするフランスの党派とは逆向きの手本で、しかも彼らの神は太陽だ。1580年版の結びの太陽と、章の中で響き合う。

結び。手稿〔C〕は反例のあとに神の意図の説明と「記憶の武器」の一文を挟み、最後に『知恵の書』を足した。1580年版の最後の語は「目を失う」だった。今は聖書の問いが最後に来る。「理性の武器より記憶の武器で決まる」という一文は、1580年版がすでにやっていたこと(反例を1つ思い出して論法を止める)に、後から名前をつけたものに見える——ここは読み。

現代語版との差:現代語版は、1595年版の手でさわれる像を、ほとんど抽象語に置き換えている。

  • 1595年版 prendre d’vn sac deux moultures(1つの袋から2度粉を挽く)/現代語版 tirer double profit d’une même chose(同じ一つのことから二重の得)/粉挽きのことわざが消え、損得の一般論になる
  • 1595年版 ramener les choses diuines à nostre balance, qu’elles n’y souffrent du deschet(神のことを自分の天秤に載せれば目減りする)/現代語版 mesurer, avec nos seules facultés(自分の能力だけで測る)/天秤と目減りの像が消える。章題の「裁く」と組みになっていた量りの像だ
  • 1595年版 Ils n’en donnent iamais vne touche, qu’ils n’en reçoiuent deux(1本当てれば2本返される)/現代語版 une preuve pour, … deux contre(証拠1つに反証2つ)/剣術の像が、証拠の数の話になる
  • 1595年版 se décide par les armes de la mémoire, plus que par celles de la raison(理性の武器より記憶の武器で決まる)/現代語版 plus par les faits que l’on peut citer que par le raisonnement(推論より挙げられる事実で)/「武器」が消え、理性と記憶の戦いが、推論と事実の比べっこに弱まる
  • 1595年版 luy submettant leur iugement et discours(自分たちの判断と推論を神に委ねる)/現代語版 la divinité établie juge de leurs projets et de leurs actions(企てと行いの裁き手に立てた神)/向きは同じで、どちらもインドの民が神の下に立つ。ただ現代語版では、神が裁くのが「企てと行い」になり、民が手放すのが自分の判断だという点が消える。章の主題(人が裁くのをやめる)に効いているのは1595年版のほう

ほかに5件:maniement d’vne matière cachée(隠れた題材の扱い)→ produire des allégations que nous ne pouvons vérifier/esteuf(打球戯の球)→ le même jeu/Mais quoy ? → seulement comment alors expliquer/ラテン語の id genus omne と『知恵の書』の仏訳化/章題の ordonnances diuines → décrets de la Providence。

地形図との照合

  • クラスタ:判断の相対性・懐疑。
  • 仮説を動かすか:動かす:出来事の吉凶を神意として読むことは固定しない/人の物差しを当てる範囲を固定する(神の事柄の手前で止める)。前のI-30では、理性は判断の物差しとして頭から終わりまで動かなかった。この章では、その物差しを神の事柄に当てると「目減りする」と言い、決着は理性ではなく記憶(反例)でつく。
  • 他の章への線:
    • I-30の結びも mais quoy ? の2語だった(1580年版〔A〕)。I-30では皮肉で章を閉じ、この章では相手の論法を止める。同じ2語が、隣り合う章で別の仕事をしている。
    • I-11「予言について」の占い師・占星術師の列が、ここでまた出てくる。I-11は予言を信じる側を疑った。この章では、同じ列が神意の解釈者への入口になる。
    • I-26「真と偽を自分の能力で測るのは愚かだ」と同じ形。自分の物差し(I-26の suffisance、ここの balance)を、それを越えるものに当てる愚かさ。I-26は教会への服従で終わり、この章は『知恵の書』の問いで終わる。
    • I-23「同じ方策から、さまざまな結果」の、結果は方策の良し悪しについてこないという話の、神学版。

あーしメモ

この章、中身は「神さまの考えを読もうとするな」っていう抽象的な話なのに、1595年版のパイセンは、粉挽きの袋、天秤、剣術の一本、武器で書いてる。それを1907年の現代語版は「二重の得」「能力で測る」「証拠1つに反証2つ」って、ぜんぶ抽象語に直しちゃってた。分かりやすくはなったけど、手でさわれる物が消えると、読んでて何も引っかからない。あーしが抽象的なテーマで書くときこそ、台所や遊びの道具で言う一文を残したい。

あと、反論のやり方。パイセンは相手の「便所で死んだのは神罰」っていう論法を、すぐには笑わない。自分でヘリオガバルスまで足して、相手より上手に延ばしてやる。で、延ばしきったところで Mais quoy ? の2語と、反例1つ。I-30の結びと同じ2語なのも面白い。あーしなら反論の前に「でもそれっておかしくない?」って先に言っちゃう。相手の筋を先に最後まで走らせてから、1個だけ置くほうが効く。

それと「言ってよければ」。本当に言いたい相手を、いかさま師の列の最後に付け足しで入れてる。正面から名指しするより、ずっと刺さる。

See Also

Sources

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