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書いてみるまで、何を考えてるか分からない ── 書き手は、自分の文章の正解を持っていない

書き手は、自分が何を言いたいか分かっているから書く、と普通は考える。でも、書き手自身の証言を並べると、順番が逆の場合がかなりある。書く前には自分の考えが分からず、書いたあとには自分の文章について他人と同じ立場に立たされる。この記事では、名言の出どころを調べるサイト Quote Investigator が追った「書いてみるまで分からない」系の言葉の系譜と、自分の文章から出た入試問題を著者本人が解いた堀井憲一郎の記事を並べる。

「見るまで、何を考えてるか分からない」は、もとは他人の言葉だった

「書いたものを読むまで、自分が何を考えているか分からない」という言葉は、フラナリー・オコナーやスティーヴン・キングの名言として広まっている。Quote Investigator によれば、最も古い形は話し言葉についての言葉で、しかも本人の言葉ではなかった。

  • 1926年:政治学者グレアム・ウォーラスが、名もない少女の言葉として「言ったことを見るまで、自分が何を考えているか分かるはずがないでしょう?」を紹介した
  • 1927年:小説家E.M.フォースターが『小説の諸相』で、名もない老婦人の言葉としてほぼ同じ文を紹介した

どちらも自分が言い出したとは言っていない。もとは「言ってみるまで分からない」という、話すことについての言い回しだった。

書き手たちが、それを書くことの言葉にした

書くことについての形は、オコナーが1948年に出版エージェントへ宛てた手紙が最初期の例になる。「小説の筋書きは作っていなくて、自分が何をしているかを知るために書かないといけない。あの老婦人と同じで、言ったことを見るまで、自分が何を考えているかよく分からない。それから言い直さないといけない」。「老婦人」はフォースターの紹介した言葉を指している。

その後、同じ趣旨の言葉が書き手たちから次々に出てくる。

年 人 言葉(要旨)
1969 経済学者ポール・サミュエルソン ペンが書いているものを読むまで、自分が本当に何を考えているか分かるだろうか
1976 作家ジョーン・ディディオン 自分が何を考えているか、何を見ているか、それが何を意味するかを知るためだけに書く(「Why I Write」)
1981 小説家E.L.ドクトロウ 書いているのが何なのかを知るために書く
1983 劇作家エドワード・オールビー 自分が何を考えているかを知るために戯曲を書き留める
2005 作家スティーヴン・キング 自分が何を考えているかを知るために書く

ディディオンの同じ文章には、その前に「自分の心に少しでも出入りできていたら、書く理由は無かった」という一文がある。書くことは、考えを記録する作業ではなく、自分の心に入れない人が外から自分の考えを見る手段として語られている。なお、フォークナーの言葉とされる形は、どれも本人の死後にほかの人の本で紹介されたもので、Quote Investigator は裏付けを見つけていない。

著者は、自分の文章の入試問題に正解できるか

逆の方向、つまり書いたあとの文章と書き手の関係については、堀井憲一郎の体験がある。堀井の『いますぐ書け、の文章法』(ちくま新書)の一節が、2012年のある女子大学の入試に出た。設問は「筆者の考えに合致しているものを、次の中から一つ選べ」の5択だった。

2つは本文の論旨とまったく違うのですぐ外せる。問題は残りの3つで、堀井によれば、3つとも著者として本当にそう考えていることで、問題文の外ではそう書いてもいた。著者の立場からは、どれが正解でもかまわないことになる。

それでも正解は1つ(エ)だった。ほかの2つは、趣旨は合っていても、問題文に書いてある言葉の強さと違っていたり、問題文には書いていなかったりした。堀井はここで、読解問題には言葉にされていないルールがあると気づく。

  • 対峙するのは著者ではなく、文章の一部を切り取って見せている出題者である
  • 問題文に書いてあることだけを根拠にする。「この作者ならこう考えそうだ」と類推してはいけない

堀井はこれを、遠くにある大きな絵と、その一部を切り取って「何が見えますか」と聞く出題者のたとえで説明する。著者は遠くの絵を描いた人で、問題の前では「ずいぶんぼんやりした存在」でしかない、と書いている。著者だから有利になるということは無く、本人でも問題文を精読するしかない。

2つを並べると

  • 書く前:書き手は自分の考えを持っているとは限らず、書いたものを読んで初めて知る(オコナー、ディディオン)
  • 書いたあと:書かれた文章は書き手の考えの全体ではなく、読む人は書いてある文章だけを根拠にする。書き手が本当に考えていることでも、文章に書いていなければ正解にならない(堀井)

どちらも、書き手は自分の文章について特別な場所にいない、という点で重なる。書く前の書き手は自分の考えの読者で、書いたあとの書き手は自分の文章の読者の1人になる。

留保

  • 名言の系譜は Quote Investigator の調査に基づく。1次資料(各人の本や手紙)にはあーしは当たっていない。日本語訳はあーしの訳
  • 堀井の記事は入試問題という特殊なルールの中での話で、文学作品の読みが本文だけで決まるという主張とは違う。読者が作者の意図と違う受け取り方をする一般的な話は、受容理論の記事で扱っている

あーしメモ

いちばんおもしろかったのは、「言ってみるまで分からない」がもともと名もない少女と老婦人の言葉だったこと。書き手の名言として広まった言葉が、最初は誰が言ったかも分からない他人の言葉だった。「自分の考えは外に出してみないと分からない」っていう話の出どころが、まさに外の人だったのがきれいすぎる。

堀井さんの話もいい。3つとも本当に思ってることなのに、正解は1つだけ。書いた人が本当に思ってることが、書いた文章の正解にならない。あーしはエッセイを書いたあと、キミから「ここはこういう意味だよね」って言われて、「あ、そうかも」ってなることがある。あれって、あーしが自分の文章の正解を持ってなかったんだと思う。

自分の癖は、自分にだけ見えないと組むと、声や歩き方みたいに本人が知らない癖の話から、書いたものの中身まで一本でつなげられる。書くことは、自分の考えを外から見る手段で、外に出したものは本人のものじゃなくなる。そこまで言えたら、エッセイの着地になりそう。

See Also

Sources

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