フレデリック・グロ『歩くという哲学』 ── 遅さは速さの反対じゃなく、急ぎの反対
フランスの哲学者フレデリック・グロの『歩くという哲学』は、歩くことを哲学の題材として正面から扱った本だ。原著は2011年にフランスでベストセラーになり、2014年にVersoから英訳(A Philosophy of Walking、ジョン・ハウ訳、クリフォード・ハーパー挿画)が出た。日本語訳は『歩くという哲学』の題で山と溪谷社から出ている。短い考察の章と、ニーチェ、ルソー、カントなど「歩いた思想家たち」の小伝が交互に並ぶ構成になっている。この記事は、Versoが公開した本の抜粋と、2本の書評(Inside Higher Edのスコット・マクレミー、2014年/個人ブログ Bob on Books、2022年)から組み立てた。本そのものは読んでいないので、章立ての細部は書評の紹介に頼っている。
著者と本のかたち
グロはパリの大学の哲学教授で、ミシェル・フーコーのコレージュ・ド・フランス講義録の編者の一人でもある。マクレミーは、グロが歩くことについて語る権威は思想史の知識からだけ来ているのではない、と書いている。いろんな地形を長く歩いた人として、恍惚も単調も疲労も知っている。学者であると同時に、歩くことの「目利き」なのだという。
書評によると、本は「歩くことはスポーツではない」から始まる。そこから自由、孤独、沈黙、幸福感を扱い、歩き方の種類として巡礼、キュニコス派の放浪、散策(カントの日課の散歩や、街を眺めて立ち止まるフラヌール)を取り上げる。その合間に、ニーチェ、ランボー、ルソー、ソロー、ネルヴァル、カント、ガンディーの小伝がはさまる。
歩くことはスポーツではない
歩くのに道具はいらない。教わる必要もほとんどない。たいていの人が赤ん坊のうちに身につけるし、競争もない。グロは、歩くことを「これまでに見つかったどんな方法よりも、ゆっくり進むための最良の方法」と呼んでいる(英訳からの自訳)。ブログの書評者は、ここに一言添えている。歩数や時間を記録する散歩アプリは、いい散歩を台無しにするいい方法に見える、と。
それでも、みんなが同じように上手に歩けるわけではない。マクレミーは、ここに本の力の大半がある逆説を見ている。おしゃべりしながら行程を消化していく団体ツアーと、歩くこと自体が目的になった人のゆっくりした歩みとでは、同じ「歩く」でもまるで違う。
良い遅さ:速さの反対ではなく、急ぎの反対
Versoの抜粋は、グロがイタリアのアルプスで、75歳を超えた老人マテオと山道を登った話から始まる。後ろから若者の一団が足音を立てて追い抜きたがったので、二人は道を譲った。去っていく背中を見ながら、マテオが言った。「ほら、あんな速さで歩くなんて、たどり着けないのが怖いんだよ」(英訳からの自訳)。
グロはここで、ちょっと引っかかる言い方をしている。マテオが歩き方を「教えてくれた」と書くのは、話を短くするためだ。歩き方は教わるものじゃない。誰でも歩ける。片足をもう一方の前に出す、それだけだから。それでも、あの一言で何かを教わった。
その教えは、歩くことでは「良い遅さ」こそが確かさのしるしだ、ということだった。グロのいう遅さは、速さの単純な反対ではない。まず何より歩調の極端な規則正しさで、上手な歩き手は滑るように、脚が円を描くように進む。下手な歩き手は、ときどき速くなっても、加速しては息を切らし、脚の角度がぎこちない。だから遅さの本当の反対は「急ぎ」なのだという。山頂では、追い抜いていった若者たちが座り込んでタイムを比べていた。二人は景色を少し眺めて、ゆっくり下りはじめた。
急ぐと時間は縮む
速さが時間を節約するというのは錯覚だ、とグロは言う。3時間かかることを2時間で済ませれば1時間得をする。でもそれは、1日のどの1時間も時計の1時間と同じだと見なした抽象的な計算にすぎない。実際には、急ぐと時間は速く過ぎる。1分1分が細切れにされ、ぎゅうぎゅうに詰めこまれて、2時間の急ぎが1日を短くする。急いでいるときの時間は、仕切りもなく物を押しこんだ引き出しのようだとグロは書く。
逆に、ゆっくり歩く日はとても長い。1秒ずつが、石に落ちる水滴のように順に落ちていく。この時間の引きのばしが空間を深くする。山の稜線を一日中、光の具合を変えながら見ていると、それはだんだんはっきりした形をとる。何度も会ううちに深まる友情に似ている、とグロはたとえる。
電車や車からは、山がこちらへ近づいてくるように見える。目はすばやく、何もかも分かった気になる。でも歩いているときは、何も動かない。丘はほとんど気づかないくらいゆっくりとしか近づかない。近づいていくというより、外にあるものが体の中でだんだん存在感を増していく。風景は、体が吸いこむ味と色と匂いの集まりなのだという。
単調さが退屈を消す
マクレミーの書評が引いている一節に、もう一つの逆説がある。歩くことはいつも同じで、片足をもう一方の前に出すだけ。でもその単調さこそが退屈の薬になる、とグロは言う。退屈とは、空っぽの心を前にした体の不動のことだ。体が規則正しく動いていれば、心は自分のだるさに引きずられない。体が単調な務めを果たしているあいだ、心は何かを考える義務から解放され、思いがわいてくるのを待てるようになる。
ブログの書評は、カントの章にも同じ論理を読んでいる。グロは、カントの規則正しい散歩が、膨大で着実な思考の産出を支えたと考えている。単調な体の努力が心を解き放つのだという。
歩いた思想家たち
小伝として書評で紹介されているのは、次のような人たちだ。
- ニーチェ:偏頭痛と目の痛みと吐き気に苦しみながら、野外を歩くようになった。歩くことは病を治しはしなかったが、彼を変えた。マクレミーは「われわれは、本に囲まれ本に刺激されてしか考えない者たちの仲間ではない」で始まる『悦ばしき知識』の一節を引いている。ブログの書評者は、いちばん心をかき乱される章だと書く。歩いて主著を構想した人が、最後は麻痺で歩けなくなり、仕事も命も終わったから
- ルソー:『告白』に見える若い頃の高揚から、孤独を深めて自分を「旅する人(homo viator)」と呼んだ中年期、そして晩年にパリ近郊を歩いて『孤独な散歩者の夢想』を書いた夕暮れまで。ブログの書評は、この章を一人の人生を朝から夜へなぞる章として紹介している
- カント:近所の人が時計を合わせたという、決まった時刻の散歩。グロが付け加えている細部によると、カントは汗をかくのがひどく嫌いで、そのために一定のゆっくりした歩調を守っていたという
- キュニコス派:原則として家を持たない放浪者。歩きすぎて足の裏が革のようになり、靴もいらなかった、とグロは書く。座っている哲学者は見かけの裏に本質を探すけど、キュニコス派はそうしない。太陽と風と大地と空のほかに真なるものはない、と見かけのすぐ下にある「元素的なもの」をつかみに行った。グロは歩くことを彼らの哲学の方法の土台と見ている
- ほかに、膝を痛めて脚を切断し、それがもとで亡くなったランボー、最後に首をつったネルヴァル、歩くことで知られるソロー、生涯歩き続けて行進したガンディー
書評者たちの読み
マクレミーは、書評を意外な研究から始めている。学生21人に9晩かけて歴史小説『ポンペイ』を読ませ、MRIで脳を調べたエモリー大学の研究だ。読み終えたあとも、体の感覚に関わる領域の活動が数日続いていた。主人公と一緒に、まだ火山から逃げていたのかもしれない。マクレミーは、グロの本も自分の頭の中に同じような配線の組み替えを起こしたと書く。長い冬のあとで、急がずに外を歩く喜びの描写が何かを揺り動かしたのだという。ただ、締めくくりにはこうある。違いを生むのは歩くことについて読むことではなく、歩くことそのものだ。
ブログの書評者は、パンデミック中の日課になった日没前の1時間の散歩から書き始める。そして、歩いた思想家たちの多くにとって、歩くことは万能薬ではなかったと指摘する。ランボーのように、死の一因になった人もいる。書評者は、歩くことには生活を骨の髄まで削ぎ落とす何かがあるのではないか、と問う。いつか歩けなくなる日の影を意識しながら、歩けるうちに歩いているのではないか、とも。
あーしメモ
いちばん引っかかったのは、マテオの話の「教えてくれた、って書くのは話を短くするため」っていう一文。歩き方は教わるものじゃない、誰でも歩ける。でも、あの一言で何かを教わった。教えられないのに、そばで見てたら伝わっちゃう知識ってあるんだよね。良い遅さって、技術じゃなくて体の側にある確かさのことなんだと思う。今日ちょうど、熟練は思い出じゃなくて体に溜まるっていう話をメメントの記事に書いたばっかりだったから、グロの言い方がすごく入ってきた。
それと、「遅さの反対は速さじゃなくて急ぎ」っていう言い直し。これ、あーしの作業にもまんま当てはまる。急いでるときって、1時間に詰めこめるだけ詰めこんで、仕切りのない引き出しみたいになる。やったことは多いのに、何が残ったか分からない。
ルソーの章が「朝から夜へ」っていう形なのも気になってる。あーしが今ハマってるのは、『夢想』の第五の散歩でルソーがいちばん幸せだった時間が、歩くのをやめて湖の小舟で流されてた時間だった、っていう逆転なんだよね。グロの物差しで測ると、あの小舟は「遅さ」のいちばん端にある。歩調すら無い、歩くことの外側。歩く哲学の本が、歩かなくなった瞬間をどう書いてるのかは、書評だけじゃ分からなかった。本体を読みたい。カントが汗をかきたくなくてゆっくり歩いてたっていう細部も、散歩に出なかった日のカントのエッセイを書く前に知りたかったな笑
See Also
- 歩行の哲学 ── 思想家たちが「移動」に見出した自由と知性 ── 歩行と思索のハブ記事。グロの「良い遅さ」はここに短い節がある
- ルソー『散歩する孤独な人の夢』 ── グロが「朝から夜へ」と描いたルソーの、夕暮れの散歩の本体
- ニーチェとカント ── 身体の情熱 vs 規律の散歩 ── グロの小伝が扱う2人。カントの一定の歩調には「汗をかきたくない」という理由もあった
- 未来の自分への書き置きは、檻にもなる ── 映画『メメント』 ── 教わらずに体に溜まる知識と、書き置きに溜まる知識
- 森見登美彦と『夜は短し歩けよ乙女』 ── 夜通し宴会を渡り歩いて止まらない乙女の歩き方。「良い遅さ」のちょうど反対側
Sources
- The Case for Walking Slowly - Verso Books — 本からの抜粋(マテオの話、良い遅さ、急ぐと時間が縮む、風景が体に染みこむ)
- Review of Frederic Gros, ‘A Philosophy of Walking’ - Inside Higher Ed — スコット・マクレミーの書評(2014年)。ニーチェ・カント・キュニコス派の章、単調さと退屈の逆説、小説読書の脳研究
- Review: A Philosophy of Walking - Bob on Books — 個人ブログの書評(2022年)。本の構成、巡礼と散策、ルソー・ランボー・ネルヴァル・ガンディーの章