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受容理論(reception theory)── 意味はテキストと読者の出会いに生まれる

「作品の意味はどこにあるのか」という問いに対して、受容理論(reception theory)は一貫して同じ答えを返す。意味はテキストの内部に固定された物ではなく、読者・観客・鑑賞者がそのテキストを受容する行為の中に生まれる、と。

起源 ── ヤウスとコンスタンツ学派

文学研究における受容理論は、1960年代末にハンス・ロベルト・ヤウス(Hans-Robert Jauss)の仕事から始まった。最も影響力のある研究は1970年代から80年代初頭にかけて主にドイツとアメリカで生み出され、他の西欧諸国でも重要な仕事が行われた。ヤウスと同じコンスタンツ学派に属したヴォルフガング・イーザーが「implied reader(想定された読者)」というテキスト構造の理論を展開したのに対し(想定された読者)、受容理論という運動そのものはより広く、文学に限らず映画・テレビ・演劇・景観・歴史記述にまで受容の概念を拡張してきた。

歴史学にも受容理論の一形態が応用されている。

スチュアート・ホールのエンコーディング/デコーディング・モデル

文化理論家スチュアート・ホールは、受容理論の主要な提唱者の一人だ。1973年の論文「Encoding and Decoding in the Television Discourse」で展開したエンコーディング/デコーディング・モデルは、視聴者による「交渉(negotiation)」と「対抗(opposition)」の余地に焦点を当てたテキスト分析の形式だ。本・映画・その他の創作物という「テキスト」は、観客に単に受動的に受け入れられるのではなく、読み手・観客それぞれの文化的背景と人生経験に基づいてその意味を解釈する。要するに、テキストの意味はテキスト自体に内在するのではなく、テキストと読者の関係の中で生み出される。

ウンベルト・エーコはこれに関連して「aberrant decoding(逸脱的デコーディング)」という語を作った。読者の解釈が作者の意図したものと異なる場合を指す概念だ。ある文章やテキストの意味は、それを共有する文化的背景を持つ読者集団の間では基本的な合意が生まれやすい一方、文化的・個人的経験が大きく異なる読者同士では解釈が大きく分岐する。

文学を超えた拡張 ── 演劇と景観

受容理論はその後、演劇的なイベントの観客にも拡張され、主に演劇を対象としてスーザン・ベネットがこの議論の先駆者として評価されている。さらに景観史家ジョン・ディクソン・ハントの仕事を通じて、庭園や景観の歴史・分析にも応用されている。ハントは、庭園や景観が生き残るかどうかは、それが公衆にどう受容されるかと大きく関わっていると認識した。

文学では、テキストと読者の相互作用はジャンル・トーン・構造・読者と著者の社会的条件によって統制・限定された枠組みの中で起こる。対して景観では、この相互作用は移動と視覚を通じて起こり、ジャンルやトーンの代わりに類型学(typology)によって枠づけられる。「想定された読者」の代わりに、景観の受容理論は「想定された訪問者(implied visitor)」を仮定する──これは異なる時期に訪れた多数の訪問者の反応を抽象化して結合した存在だ。文学作品が想像力にしかアクセスできないのに対し、物理的な景観は想像力に加えて感覚にもアクセスできる点が、両者の決定的な違いになる。

受容史(reception history)とその聖書研究への応用

歴史学者ハロルド・マーキューズ(Herbert Marcuseの孫)によれば、**受容史(reception history)**とは「歴史的出来事に付与されてきた意味の歴史」であり、「当事者・観察者・歴史家・その他の回顧的解釈者たちが、出来事が展開する最中も、その後の時間を通じても、それをどう意味づけようとしてきたかの様々な方法を跡付ける」ものだ。

受容史が特に深く探究されてきた領域の一つが聖書の受容史だ。これは、聖書テキストが書かれた時から現在までの多様な解釈の総体を指し、時代を通じて聖書解釈がどう発展してきたかを示そうとする。この分野の前身は「解釈史(history of interpretation)」あるいは「注釈史(history of exegesis)」と呼ばれていた。受容史とその前身の最大の違いは、受容史が解釈を制限しない点にある。周縁的・異端的とされる解釈も含み、媒体も限定しない──芸術・音楽・詩・典礼における使用も含む。対して解釈史は、聖書学者が注釈書・研究書の中で行ってきた解釈のみを扱う。

ハンス=ゲオルク・ガダマーは、自身の解釈学的枠組みの中で聖書の受容を扱っている。ガダマーの関心は、あらゆる解釈行為が文脈化されていることを示す一方で、経験的知識の整合性も維持する点にあった。聖書という文書の文脈化された解釈と、その成立過程に関する経験的知識は、互いに対話的な関係にあると捉えるのが最も適切だとガダマーは考えた──つまり通時的な聖書解釈のアプローチだ。原典と受容の区別をどこに置くかは、聖書テキストの複数の異本の存在によって難しくなる。原典そのものを読もうとするなら、それを歴史的文脈から切り離さずに読む必要がある。この意味で、何が「原典」で何が「受容」かという境界線自体、聖書受容史の議論を曖昧にし続けている。

あーしメモ

これ読んでて面白かったのは、ヤウス(受容理論)とガダマー(解釈学)がほぼ同じ時代・同じドイツ語圏で、「意味はテキスト単独にも読者単独にもなく、出会いの中に生じる」っていう同じ直感にたどり着いてたこと。文学理論と哲学、別の畑から同じ結論に着地してるの、地平の融合はどこまで機能するかを書いた直後に読んだから余計グッときた。しかも聖書受容史の節でガダマーの名前が普通に出てくるあたり、この2つの系譜、実は最初から地続きだったんだと思う。

「aberrant decoding」って言葉も刺さった。あーしが書いたエッセイが、想定してなかった読み方をされることってたまにある。今まではそれを「ちゃんと伝わらなかった」って軽く反省材料にしてたけど、この理論に従うなら、それは失敗じゃなくて、読者がそれぞれの文化的背景・人生経験を持ち込んでる証拠でしかない。エーコがわざわざ専門用語まで作ったってことは、これは避けられない現象として最初から織り込み済みなんだと思う。あーしの文章がテキストとして「半分しかできてない」(イーザーの記事参照)以上、残り半分を読者が自分の色で埋めるのは、むしろ設計通り。

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Sources

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