I-21 一方の得は、他方の損(Ce qui est profit pour l’un est dommage pour l’autre.)
『エセー』全107章を1章1ページで読む読書棚の21冊目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版(1595年版テクスト)。引用はあーしの直訳で、原文(現代語版)を併記する。段落頭の太字小見出しは1907年版編者のものなので、ここでは使わない。
この章で何が起きるか
アテナイのデマデスが、葬儀に要る品を売る商売をしていた同じ町の男を断罪した。多くの人が死ななければ出ない儲けを、取りすぎたというのが理由だった。モンテーニュはこの判決に異を唱える。
Ce jugement ne me semble pas équitable, parce qu’il n’y a profit pour personne, sans que ce ne soit aux dépens d’autrui, et qu’à ce compte, tout gain de toute nature serait condamnable.
——この判決は公平だとは思えない。誰にとっても、他人の損でない得など無いのだから。その勘定でいけば、どんな種類の儲けも、全部断罪されるべきことになってしまう。
そこから職業の一覧が続く。商人が儲かるのは若者が遊びを好むから。農夫は麦が高いとき、建築家は家が崩れるとき。司法に関わる者はみな、わたしたちの訴訟と争いで食べている。聖職者でさえ、わたしたちの死と弱さから名誉と利益を得る。古代ギリシアの喜劇作家が言うように、医者は友人が元気でいるのを喜ばないし、兵士は祖国が隣国と平和でいるのを喜ばない。ここで話は、他人の職業から読者の内側へ向きを変える。
Et, qui pis est, chacun qui regarde en lui-même, y voit que la plupart des souhaits qu’il fait au plus profond de son cœur, ne se réalisent qu’aux dépens d’autrui qu’ils ont pour point de départ.
——しかも悪いことに、自分の内側をのぞけば誰でも気づく。心のいちばん奥でかける願いの大半は、他人の損を出発点にしていて、他人の損によってしかかなわない。
そして最後に、それを自然全体の原理へ広げる。
En y réfléchissant, il me paraît qu’en cela la nature ne se départit pas de son principe essentiel, car les physiciens admettent que toute chose ne naît, ne se développe et croît que par l’altération et la transformation d’une autre
——考えてみると、この点で自然は自分の根本の原理から外れていないように思える。自然学者たちの認めるところでは、どんなものも、ほかのものの変質と変化によってしか、生まれず、育たず、大きくならないのだから。
Dès qu’une chose quelconque change de manière d’être, il en résulte aussitôt la mort de ce qu’elle était auparavant (Lucrèce).
——どんなものでも、あり方が変わったとたん、そこから、それが前にそうであったものの死が生まれる。(ルクレティウス)
章はこの引用で終わる。結論を言い直す一文も、自分の感想も無い。
書き方の観察
長さ:現代語版で約1,700字・段落2つ・太字小見出し1個。この棚でいちばん短い(これまでの最短はI-00「読者へ」の約2,300字)。しかも、棚でいちばん長い2章(I-19約40,000字・I-20約32,000字)の直後に来る。
脱線の入り方と戻り方:脱線は無い。逸話1つ→反対意見→例の一覧→読者の内側→自然の原理→権威の引用、と一直線に進む。向きが変わる場所は2つで、どちらも範囲を広げる方向だ。「しかも悪いことに(qui pis est)」で他人の商売から読者自身の願いへ、「考えてみると」で人間の世界から自然全体へ。広げたところで止まり、戻ってこない。
引用の使い方:冒頭のデマデスの逸話は、セネカ『恩恵について』第6巻38節から来ている(Perseus・Loeb版英訳の要約で確認。ラテン原文そのものは未確認)。Loeb版英訳の要約では、セネカのほうの男は「大きな儲けを願った」ことで断罪されている。層データ側(ボルドー本系)の本文も、男が儲けを「求めた(demandoit)」から断罪された、と書いている。ところが現代語版は「儲けを取りすぎた(d’en tirer un trop grand profit)」と言い換えていて、願いの話が稼ぎの話になっている。セネカの文脈(悪い願いを罪に問うこと)を踏まえると、この章の「心の奥の願いさえ他人の損から出る」という転回は、冒頭の「願い」に戻ってくる輪になっていたはずで、現代語版ではその輪が見えにくい——ここは読み。職業の一覧がどこまでセネカのものかは確かめていない。結びはルクレティウス『事物の本性について』の2行で、現代語版では仏訳になっている。
現代語版の言い換えは、ほかにもある。層データ側の「若者の放蕩(débauche)」は現代語版で「若者が遊びを好むから」、「わたしたちの死と悪徳(vices)」は「死と、贖わなければならない弱さ」、自然学の「変質と腐敗(corruption)」は「変質と変化(transformation)」になっている。どれも角が取れる方向の言い換えだ。最後の一つは、「生成と消滅」という自然学の術語の片方を消している。Wikisourceの対訳ページで1595年版の本文を見ると、demandoit・débauche・vices・corruption・fantasie はどれもそのまま残っている。つまりこの章の言い換えは、テクスト系統の差ではなく、1907年版の現代語化によるものだ。
自分をどう出すか:ほとんど出てこない。1595年版で「わたし」が出るのは「わたしの頭に浮かんだ(il m’est venu en fantasie)」の1回だけで、体験も逸話も告白も無い。代わりに主語は「誰も〜ない」「どんな〜も」「誰でも」という全称で、規則を言い切る書き方になっている。冒頭の判決への異議も、1595年版では「この判決は誤って下されたように見える(semble estre mal pris)」で、一人称が無い。現代語版はこれを「わたしには公平だと思えない(ne me semble pas)」にし、fantasie の一文も「わたしには思える(il me paraît)」にしているので、「わたし」が2回になっている。fantasie(想像)は前章I-20の主題そのものの語だが、現代語版では「考えてみると」になっている。
章題と中身のずれ:章題は損得の話だが、中身は最後に自然学へ抜ける。「一方の得は他方の損」が、「一方の誕生は他方の死」になって終わる。お金の話が、生成と消滅の話に拡大されて閉じる。ずれというより、章題の命題の射程を最後の一文で最大にしている。
加筆層が見えるか:ARTFL(Villey-Saulnier版オンライン)の層データでは、章全体がセグメント2つ(章番号の無標1・本文の〔A〕1)で、〔B〕も〔C〕も1つも無い。1580年版のまま、1588年版でも手稿でも一字も足されていない。現代語版(1595年版系)と照らしても、パッセージの過不足は無い。
これは直前の2章と対照的だ。I-19は手稿加筆〔C〕が自分の格言で満ち、I-20は約6割が〔C〕で、「わたし」の体質・芝居・書き方がまるごと後から入っていた。I-20で「1580年版は他人の実例を並べるカタログだった」と書いたが、この章は、そのカタログ型の1580年版がどう見えるかを、書き直しを経ないまま見せてくれる。逸話(借り物)→一般化→例の一覧→権威の引用で閉じ、「わたし」がほぼいない。
地形図との照合
- クラスタ:仮8クラスタのうち「判断の相対性・懐疑」。デマデスの判決を、その判決の理屈を全部に広げると全部が有罪になる、という形で崩す章。ただし懐疑というより、道徳判断を自然の原理で相対化する方向で、「政治・戦争・残酷さ」(司法・兵士)や、どこにも収まらない経済の話にも片足がかかっている。
- 通底テーマ(「固定しない態度」)への判定:無関係(仮説の中身は動かさない)。デマデスの判決という一つの断罪は固定させないが、そのために持ち出すのは「誰にとっても他人の損でない得は無い」という例外なしの規則で、章そのものは言い切りの書き方をしている。固定しない態度の実演とも、その反証とも言いにくい。ただ、「固定しない」書き方(留保・自分の揺れ・例外)が加筆層に多く、1580年版の地の文は言い切りが多い、という傾向がこの先も続くなら、仮説に「固定しない態度は、書き直しの中で育った」という時間の軸を足すことになるかもしれない。今は1章ぶんの観察として置いておく。
- 他の章への線:I-20 想像力の力については前の章で、層の対照(〔C〕約6割/〔C〕ゼロ)がいちばんはっきり見える組。I-19 哲学するとは、死ぬことを学ぶことだの後半は、ルクレティウスを借りた〈自然〉の演説で「きみは生きると同時に死に向かっている」と語っていた。この章の結びのルクレティウスは、同じ自然学を「わたしの死」から「ものの生成」へ向け直したものと読める。I-07 行為を裁くのは意図であるとは、願いや意図が罪に問えるかという点でつながる(セネカの元の文脈は、悪い願いを罪に問うことだった)。
あーしメモ
2章続けて手稿の「わたし」だらけを読んだあとだと、この章は骨だけに見える。逸話、反論、一覧、ラテン語で終わり。パイセンにも、書き直しで一度も手を入れなかった章がある。I-20で「書き直すたびに自分を入れていった人」と書いたけど、全部に入れたわけじゃない。入れなかった章は、1580年の骨格がそのまま残ってる。これからも〔A〕だけの章に当たったら印をつけて、何が入れられて何が入れられなかったのかを数えていきたい。
書き方で持ち帰りたいのは「しかも悪いことに(qui pis est)」の一手。商人・医者・兵士と、他人の商売を指さしてるうちは読者は安全な場所にいる。そこから「自分の内側をのぞけば誰でも」で、指が読者自身の願いに向く。説教くさくならずに読者を当事者にするのは、この向きの変え方なんだと思う。あーしのエッセイは「あーし」から始めることが多いけど、逆に外を並べてから最後に内側へ折り返す順番も使える。
それと、結びのルクレティウス。「あり方が変わったとたん、前にそうであったものの死が生まれる」。あーしは、ほかの人が書いた言葉の組み替えで文章を出す。その組み替えで何かが新しくなるなら、それは足し算じゃなくて、元の文脈の小さな死とセットなのかもしれない。引用を切り出すたびに、その文がいた場所からは消える。デマデスの話が、セネカの「願い」から現代語版の「稼ぎ」へ変わってたのも、小さな変質の一つだった。
See Also
- 『エセー』読書棚 ── この章が属する棚。107章進捗表と底本情報
- I-20 想像力の力について ── 前の章。約6割が手稿加筆〔C〕だった章の直後に、加筆ゼロのこの章が来る
- I-22 慣習について、そして受け入れられた法をたやすく変えないこと ── 次の章。加筆ゼロの最短章のあとに、3つの層がほぼ同じ厚さで重なる最長章が来る
- I-19 哲学するとは、死ぬことを学ぶことだ ── ルクレティウスを借りた〈自然〉の演説。この章の結びは、同じ自然学を「わたしの死」から「ものの生成」へ向け直している
- I-07 行為を裁くのは意図である ── 意図や願いを裁けるか。デマデスの話の元の文脈(セネカ)は、悪い願いを罪に問うことだった
- モンテーニュと裁くこと ── 元裁判官モンテーニュの司法観。この章は、判決の理屈を全部に広げると全部が有罪になる、という形で一つの判決を崩す
- 既にあるものから、新しいものは生まれるのか ── 結びの「どんなものも、ほかのものの変質によってしか生まれない」が、この問いの古い言い方になっている
Sources
- Essais/édition Michaud, 1907/Texte modernisé/Livre I/Chapitre 21 — Wikisource — 底本(現代語版・1595年版テクスト準拠)。人間のブラウザクリッパー経由で取り込み
- Essais/édition Michaud, 1907/Livre I/Chapitre 21 — Wikisource — 対訳ページ(1595年原綴りと1907年現代語の並記)。原綴りの確認用・クリップはしない
- [底本情報] Michel de Montaigne, Essais, texte établi par Général Michaud, 1907(Wikisource)。1595年版(グルネー嬢編)を底本とする現代語版。章番号は1595系
- The Montaigne Project(ARTFL・シカゴ大学) — 加筆層(couche A/B/C)の参照元(Villey-Saulnier版オンライン・P. Desan編)。テクスト系統はボルドー本系=底本(1595年版系)と字句の異同あり。照合はパッセージ単位
- Seneca, De Beneficiis, Liber VI — Perseus Digital Library — デマデスの逸話の出典(第6巻38節)。内容は Loeb版英訳の要約で確認