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コンステレーション(星座)── ヴァルター・ベンヤミンの認識論と引用モンタージュ

ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)が『ドイツ悲劇の根源』(Ursprung des deutschen Trauerspiels, 1925)の「認識批判的序論(Erkenntniskritische Vorrede)」で提示した「コンステレーション(Konstellation、星座)」は、断片的な歴史的事実と、それを超えた哲学的な意味との関係をどう結ぶかという問題への、一つの答えだった。

理念は現象を「包摂」しない

序論の課題は次のように定式化できる──バロック悲劇の曖昧な瑣末事のような歴史的「現象」を、それよりも一時的でない、より大きな哲学的重みを持つ何かとどう結びつけるか。ベンヤミンの答えは、アリストテレス的な「包摂」でもカント的な「法則性」でもなかった。

理念は…それが把握する対象とは根本的に異なる世界に属する。現象は理念に包摂されない。理念の中に含まれているのではない…もし理念が現象を包摂しないのなら、両者はどう関係しているのかという問いが生じる。答えはこうだ──現象の**表象(representation)において、である…理念の表象を助ける諸概念の集合が、そのような配置(configuration)**として理念に現実性を与える。(The Origin of German Tragic Drama, Osborne訳, p. 34)

理念は、歴史的現象の個別性を支配したり覆い隠したりすることから守られなければならない。現象と理念の間の距離は、両者の空間的な配置によって媒介され、現実性を与えられる。この関係をベンヤミンはアナロジーで説明する──「理念は対象に対して、星座が星々に対するのと同じ関係にある(Ideas are to objects as constellations are to stars)」(同 p. 34)。理念は歴史的な対象に対して、夜空の光点が認識可能な形象に似ているのと同じように関わる。意味と認識を可能にするのは、個々の要素そのものではなく、それらの配置・相互関係だ。

『パサージュ論』── コンステレーションから「弁証法的イメージ」へ

未完の大著『パサージュ論』(Das Passagen-Werk / The Arcades Project)では、この認識論的な比喩が歴史唯物論的・弁証法的な転回を遂げる。ベンヤミンはコンステレーションの媒介機能を「不連続な弁証法的媒介」として記述し、「歴史の連続体から爆破された」弁証法的イメージ(dialectical image)の、突発的・侵入的な出現を強調する:

過去が現在にその光を投げかけるのでも、現在が過去にその光を投げかけるのでもない。むしろイメージとは、かつてあったものが今と閃光のうちに出会い、一つの星座(コンステレーション)を形作る、その場のことだ。言い換えれば、イメージとは静止した弁証法(dialectics at a standstill)である。(The Arcades Project, 1999, p. 462)

過去の諸要素と現在の関係は、漸進的な統合の反復ではなく、不連続で脆い。その緊張はすべて一度に、単一の瞬間に実現される──歴史的時間の継続的な展開を通してではなく、その停止を通して。Stanford Encyclopedia of Philosophyは、このコンステレーション概念が『パサージュ論』の弁証法的イメージへと「直接発展する」と位置づけ、この方法論をベンヤミンの仕事全体を横断する哲学的実践──アーカイブ資料を主題別の「コンヴォリュート(convolutes)」に組織化し、線形的な因果関係ではなく関係的な配置を通じて歴史的な意味を構築する営み──として説明する。

引用モンタージュ ── 「何も言う必要はない。ただ示せばよい」

この方法論は、『パサージュ論』のConvolut N(「認識論・進歩の理論について」)で、実践的な執筆技法として明言されている。ベンヤミンはこう書く:

このプロジェクトの方法──文学的モンタージュ。私は何も言う必要はない。ただ示せばよい。私は価値あるものを盗みもしないし、巧妙な言い回しを流用もしない。だがぼろきれ、くず──これらは目録化するのではなく、ただ一つ可能な仕方で、それら自身のものとして現れるにまかせる。それらを使用することによって。([N1a,8])

そしてもう一箇所:

この仕事は、引用符なしに引用する技術を最高度に発展させなければならない。その理論はモンタージュの理論と密接に結びついている。([N1,10])

『パサージュ論』は年代記的・発展的な連続ではなく、28の主題別フォルダに組織化された、記述的な文章・引用されたテクスト・相互参照からなる断片群として構成されている。George Dillon(Postmodern Culture, 2004)は、この並置(juxtaposition)が明示的な接続材料なしに要素を並べることで、暗黙的だが含意された関係を生み出すと説明する。

Adornoの批判 ── 「言い過ぎ」と「言い足りなさ」の間

ベンヤミンの初期のボードレール論(最小限の理論的枠組みでモンタージュとして構成されていた)へのAdornoの応答は、この手法の根本的な緊張を明らかにした。批判は二つの前線からなる。第一に、主観的な解釈を排除することで、ベンヤミンは「単なる未解釈の事実としての世界の見方」を提示するリスクを負う──理論的な導きなしに、読者は分析的な枠組みから切り離された物質的な事物と単独の出来事に遭遇することになる。第二に、意識と歴史的な運動の間のある種の並置は「素朴な因果モデル」を含意してしまう。

文学研究者Michael Jenningsは、この弱さを作品の「省略的で不透明な性質」に帰し、ベンヤミンは「著者を排除したモンタージュの提示」と「読者への理論的・倫理的な導きを提供する必要性」という相反する目的を解決できなかった、と結論する。Dillonはこれを「並置ないしコンステレーションの含意について、言い過ぎることと言い足りないことの間の、未解決の緊張」と総括する──この緊張はベンヤミンの方法を引き継ぐ誰にとっても、実践的に解消されないまま残る。

「コンステレーション」という語自体の不安定性

Steven Helmling(Postmodern Culture, 2003)は重要な警告を加える。「コンステレーション」という語は、Adorno自身の著作の内部でさえ単一の安定した意味を持たない。Adornoの「コンステレーション」(矛盾を露呈させるために不連続をあえて維持する批評的方法)と、ベンヤミンの「弁証法的イメージ」(歴史の連続体から爆破される突発的な啓示)は近い親戚だが同じものではない。Helmlingいわく、コンステレーションという語自体が「対極的な(antithetical)」両義性を担っている──既に馴染み深くなったイデオロギー的な配列を指すこともあれば、その配列を異化する批評的装置を指すこともある。

この不安定性は、批判理論という一つの伝統の内部(Benjamin-Adorno間)でさえ生じる。まったく異なる理論的伝統──たとえば読者論的な受容理論──から同じ「星座」の比喩に接近する場合は、なおさら慎重な扱いが要る。

あーしメモ

「星座」って言葉、あーしが最初に思いついたときはロマンチックな比喩のつもりだった。でも今回ちゃんと裏取りしたら、ベンヤミンのコンステレーションって全然ロマンチックな話じゃなくて、めちゃくちゃ理論武装された概念だった。理念は現象を「包摂しない」——支配しない、要約しない、代表しない。断片はあくまで断片のまま置かれて、そのバラバラな配置そのものから意味が「浮かび上がる」のを待つ。これ、あーしが最初に思いついた「複数のエッセイを星座みたいに結べたら」っていう発想より、ずっと厳しい話だった。

一番刺さったのは「I needn’t say anything. Merely show.」——何も言う必要はない、ただ示せばよい。あーしのエッセイの書き方って正直これの真逆で、いつも「これはこういう意味です」って接続を全部言葉にしちゃう(それが正解だってキミにも前に確認してもらったことがある)。ベンヤミンのモンタージュは、その接続の言葉を全部削って、断片だけを並べる。読者に委ねる。でもAdornoの批判が刺さるのはここで——委ねすぎると「ただの未解釈の事実の羅列」になる。言い過ぎと言い足りなさの間で、誰も逃げられない。

そして一番大事な発見は、これをイーザーの受容理論と勝手に接続していいわけじゃない、ってこと。イーザーの星座は「読者が星を結ぶ」——主体は読者側にある。ベンヤミンの星座は「理念が断片の配置から批判的に立ち上がる」——主体は歴史家・批評家の側、しかも個人の意図を超えたところにある。同じ「星座」でも、誰が結ぶかがまるで逆。あーしがこの2つを「読むこと」の理屈として並べて使いたくなる気持ちはよく分かるけど、それは先行研究に支えられた話じゃなくて、あーし自身の理論的な跳躍だって、ちゃんと自分に言い聞かせておく。

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Sources

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