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異化(オストラニェーニエ)── シクロフスキーの「石を石らしく」と、新しさが起きる場所

異化(ロシア語 остранение/ostranenie)は、ロシア・フォルマリズムの批評家ヴィクトル・シクロフスキー(1893-1984)が、論文「手法としての芸術」(1917年初出、1919年に増補再録)で打ち出した概念だ。見慣れて自動化した知覚を、物をまるで初めて見るように描くことで揺さぶる。それが芸術の手法だという。この記事は、原典の新英訳(アレクサンドラ・ベルリナ訳、2015年)、その効果を読者で測った実証研究、そしてモンテーニュの中に異化を読む論考の3本から、「新しさは作品と見る側のどちらで起きるのか」という問いに答えを探す。

自動化が、生を食べる

論文はまず、「芸術とはイメージによる思考である」という当時の通説への反論から始まる。標的は言語学者ポテブニャで、その説では、イメージは未知のものを既知のものに引き寄せて、理解しやすくするためにある。シクロフスキーは、これでは詩が「わかりやすさ」の道具になってしまうと考えた。

彼が代わりに持ち出すのが、知覚の自動化だ。初めて羽根ペンを握ったとき、初めて外国語を話したときの感覚を、1万回目の感覚と比べてみればいい。習慣になった動作は「無意識の自動的な領域」に退いていく。代数が物を記号で置き換えるように、自動化した知覚は物を見ずに、最初の特徴だけで「認める」。物は包装されたまま通り過ぎ、それが占める場所で存在はわかるが、見えているのは表面だけになる。

ここでシクロフスキーは、トルストイの日記(1897年)を引く。部屋を掃除していて、ソファの埃を払ったかどうか思い出せない。動作が無意識だったからで、誰も意識して見ていなかったなら、それは起きなかったのと同じだ、という記述だ。そして続ける。

“This is how life becomes nothing and disappears. Automatization eats things, clothes, furniture, your wife, and the fear of war.”

(こうして生は無になり、消えていく。自動化は、物を、服を、家具を、妻を、そして戦争の恐怖を食べてしまう。※英訳からの自訳)

これに対置されるのが、論文でいちばん有名な一節だ。

“And so this thing we call art exists in order to restore the sensation of life, in order to make us feel things, in order to make a stone stony. The goal of art is to create the sensation of seeing, and not merely recognizing, things; the device of art is the ‘enstrangement’ of things and the complication of the form, which increases the duration and complexity of perception”

(だから、芸術と呼ばれるものは、生の感覚を取り戻すために、物を感じさせるために、石を石らしくするためにある。芸術の目的は、物を単に認めることではなく見ることの感覚を生み出すことだ。芸術の手法とは、物の異化と、知覚の時間と複雑さを増す形式の難化である。※英訳からの自訳)

日本では「石ころを石ころらしくする」という言い回しでも知られている。要点は「見る(seeing)」と「認める(recognizing)」の区別にある。認めるのは速くて楽だが、そのぶん何も感じない。芸術はわざと知覚にブレーキをかけ、長引かせる。だから論文は、詩の言葉を「減速された、歪められた言葉」と定義する。

トルストイの手つき

シクロフスキーが異化の見本として挙げるのは、ほとんどがトルストイだ。その方法は、物や出来事を本来の名前で呼ばず、初めて見るように描くこと。部分にもいつもの名前を使わず、別の物の対応する部分の名前を当てる。

  • 論文「恥ずかしい」では、鞭打ち刑を「法を破った人々を裸にし、床に倒し、棒で尻を叩く」と書く。さらに、なぜ針で肩を刺すのでも万力で手足を挟むのでもなく、この愚かで野蛮なやり方なのかと問う。刑の形だけ変える提案が、慣れきった刑罰を異化する
  • 短編「ホルストメール」では、馬が語り手になる。馬には「私の馬」という言葉が、「私の土地」「私の空気」「私の水」と同じくらい奇妙に聞こえる。自分を「自分の馬」と呼ぶ人間はほとんど乗りもせず、餌もくれない。所有という制度が、馬の目から見慣れないものになる
  • 『戦争と平和』のオペラ場面では、舞台は「平らな板」「描かれた絵」「布に開いた穴が月のふりをしている」と描かれる。約束事を知らない目で見ると、芝居はただの奇妙な身振りの連なりになる

シクロフスキーは、この手法がトルストイ固有のものではないと断っている。謎々はすべて異化でできているし(鋏を「輪っか2つに釘1本」と言う類い)、民話の性の婉曲表現もそうだ。彼の見立てでは、異化は「イメージのあるところほとんどすべてに」ある。

像は誰のものでもない ── 組み替えとしての詩

この論文には、「既にあるものから新しいものは生まれるのか」という問いに直接触れる箇所が2つある。

1つ目は、像(イメージ)の由来についての観察だ。イメージによる思考が詩の本質なら、詩の歴史はイメージの変化の歴史になるはずだ。ところが実際には、イメージはほとんど動かない。世紀から世紀へ、国から国へ、詩人から詩人へ、変わらずに流れていく。

“Images belong to ‘nobody,’ to ‘God.’ … The work done by schools of poetry consists in accumulating verbal material and finding new ways of arranging and handling it; it is much more about rearranging images than about creating them. Images are a given, and poetry is not so much thinking in images as remembering them.”

(像は「誰のものでもなく」、「神のもの」だ。〔中略〕詩の流派がしているのは、言葉の素材を蓄え、それを並べ扱う新しいやり方を見つけることで、像を作るよりずっと、像を並べ替えることに近い。像は与えられたもので、詩とは像で考えるというより、像を思い出すことだ。※英訳からの自訳)

つまり、シクロフスキーの出発点では、新しさは部品(像)の側に無い。部品は借り物で、新しくなるのは並べ方と扱い方だ。

2つ目は、作ることと体験することのずれだ。18世紀ロシアの詩人たちが形容詞を名詞の後ろに置くのを、作家アンドレイ・ベールイは詩的な技巧として褒めた。でも実際は、教会スラヴ語の影響による言語の癖にすぎなかった。ここから彼は、物は(1)散文として作られて詩として体験されることも、(2)詩として作られて散文として体験されることもある、と書く。作品が詩であるかどうかは、「私たちの知覚」によって決まる。

ただし、彼はすぐに線を引き直す。狭い意味で「芸術作品」と呼ぶのは、芸術として知覚されるよう特別な方法で作られたものに限る、と。新しさは受け手の側で起きうるが、作り手の手法もあきらめない。この二重性が、異化という概念の核にある。

異化は擦り減る

異化の効果は長持ちしない。論文自身がそれを書いている。芸術作品の生は「見ることから認めることへ、詩から散文へ、具体から一般へ」進む。公爵の宮廷で半ば無自覚に屈辱を受けるセルバンテスのドン・キホーテは、やがてツルゲーネフが一般化した空っぽの「ドン・キホーテ」になる。カール大帝の名前が、ただの「王(korol)」という普通名詞になったように。

韻律の議論の結びでも、同じことが言われる。詩の韻律は散文のリズムを予測できない形で乱すことにあるが、その乱し方が「正典化されれば、減速の手法としての力を失う」。プーシキンが俗語を使ったのも、当時の詩の標準だったデルジャーヴィンの高尚な言葉づかいに対して、日常語のほうが「予想外に難しかった」からだ。何が異化になるかは、そのときの規範との関係で決まる。

名前の綴り間違いと、ブレヒトとの違い

ベルリナの訳者序文によれば、ostranenie という語そのものが、シクロフスキーの綴りの誤りから生まれた。「奇妙な(strannyi)」から作るなら n が2つ要るのに、1つで書いた。67年後、本人は「片耳を切られた犬のように世界をうろついている」と書いている。欠けた耳がかえって目を引く。語の不正確さが言葉を新鮮にし、奇妙さへの連想を呼ぶ。概念の名前自体が異化になっているわけだ。

英語では defamiliarization や estrangement と訳されることが多いが、ベルリナはどちらも問題だと言う。これらの語はブレヒトの Verfremdung(異化効果)や、人間関係の疎遠(「家族と疎遠になる」)と結びついている。どちらも人物への情緒的なつながりを弱める方向の概念で、シクロフスキーが狙った効果とは正反対だ。ブレヒトの異化効果は、観客を劇の幻想から引き離し、社会への批判的な考察へ向けるための演劇の手法で(プーランが引く仏語の文学用語辞典の定義による)、シクロフスキーの異化は知覚を取り戻すための手法だ。日本語ではどちらも「異化」なので、混同しやすい。

訳注にはもう1つ皮肉な指摘がある。シクロフスキーの異化は、彼が論敵にしたポテブニャの鍵概念 inoskazanie(「別様に語ること」)とかなり似ている。若いシクロフスキーは、ポテブニャを読み込んでいなかったので、その近さに気づかなかったのかもしれない。本人も後年、「論敵を軽蔑していて、たいていその著作を読みもしなかった」と書いている。それでもベルリナは、知覚に焦点を置いた点は新しかったと認める。

読者の側で測る ── 前景化の実証研究

では、異化は本当に読む人の中で起きているのか。アルバータ大学の文学研究者デイヴィッド・ミオールと、共著者ドン・カイケンは、1994年の論文でそれを測ろうとした(Poetics 22号)。

彼らが使うのは、チェコの理論家ムカジョフスキーの「前景化(foregrounding)」という概念だ。音韻(頭韻・脚韻)、文法(倒置・省略)、意味(隠喩・皮肉)の各層で、日常言語の型から逸れる文体上の特徴を指す。ムカジョフスキーによれば、自動化が出来事を図式化するのに対し、前景化は図式を破る。

実験の設計はこうだ。オフェイロン、マンスフィールド、ウルフの短編3作を80前後の区切りに分け、3人の判定者が各区切りの前景化の量を数える。読者は画面で1区切りずつ読み、読む時間が記録される。2回目の通読で、各区切りがどれだけ「印象的か」「感情を喚起するか」を5段階で評定する。

4つの研究を通じて、結果は一貫していた。

  • 前景化の多い区切りほど、読む時間が長い(区切りの長さ・位置・強勢の数を統計的に除いても残る)
  • 前景化の多い区切りほど、より印象的で、より感情を喚起すると評定される
  • この効果は、英文学専攻の上級生でも、文学作品をほとんど読まない心理学の入門クラスの学生でも同じように出た

ここから2人は、読みの過程を3段階で提案する。前景化の新奇さが注意を捉える(異化)→ 異化が読みを減速させ、そのあいだに感情が立ち上がる → その感情に導かれて、読者は周りの文脈や自分の記憶を探り、異化された部分を位置づけ直す(「再親和化 refamiliarization」)。異化は、見慣れなさで終わらず、新しい理解へ戻ってくる往復運動として描かれる。

ただし、この論文の結論は「新しさは読む側で起きる」を素直には支えない。2人が反論の相手にしているのは、文学性は解釈共同体の規範によって決まるとするスタンリー・フィッシュだ。前景化への反応が文学的素養に左右されないなら、前景化は訓練された読者が持ち込むものではなく、文学の外の日常言語の規範に対して働く、テクストに内在する性質だ、と彼らは主張する。一方で論文は、文学的特徴の少ない文章なら、「詩として」提示されるだけで詩的だと判断されやすくなる、という先行研究(ホフシュテッター、ズワーン)も紹介している。枠組みが効くのは、テクストの側に前景化が少ないときだ。

論文はまた、異化に慣れてしまう問題にも触れる。文学がいつも新奇さを生むなら、やがて驚きに慣れるはずではないか、という反論だ。2人はコールリッジを引いて答える。詩は「もっとも強い新奇さの印象」を生むだけでなく、「広く認められすぎて無力になった真理」を救い出す。新しさに飽きないのは、それが真理への窓になるからだ、と。

モンテーニュの「よそで考える」── 異化の前史か、網の目か

歴史家カルロ・ギンズブルグは論文「異化 ── ある文学的手法の前史」(1996年、論集『木の目』所収)で、シクロフスキーの異化の源流を、トルストイが読んでいたマルクス・アウレリウス、ラ・ブリュイエール、ヴォルテールへとさかのぼった。たとえばマルクス・アウレリウスは、性交を「腸の摩擦と、痙攣を伴うねばついた液の分泌」と書く。20世紀の読者の目には、早すぎた異化の実例に見える。

比較文学者イザベル・プーランは、この論文の仏訳で straniamento に古い仏語 estrangement が当てられたことに目を止める(Essais 誌 Hors-série 1、2013年)。その語は、ピノッキオではなくモンテーニュを呼び起こす。そこで彼女は、ギンズブルグが素通りした『エセー』に異化を探す。

手がかりは、社会学者ニコル・ラピエールの本の題『よそで考えよう(Pensons ailleurs)』が借りた、3・4「De la diversion」の一節だ。死刑台の上の罪人のような苦境で、人は別のことを考えて逃れようとする。

Nous pensons toujours ailleurs : l’espérance d’une meilleure vie nous arrête et appuie : ou l’espérance de la valeur de nos enfants : ou la gloire future de nôtre nom

——私たちはいつも、よそで考えている。よりよい生への望みが私たちを引き止め支える。あるいは子どもたちの値打ちへの望みが、あるいは自分の名の未来の栄光が。(※仏語原文からのあーし訳)

2・17「De la presumption」には、「よそで考えている人」の例がある。考えごとをしながら歩く人は、いつもほぼ同じ歩数で行き来できる。ところが歩数を測って数えようと注意したとたん、自然にできていたことが、狙ってやると正確にできなくなる。プーランは、モンテーニュの diversion(気をそらすこと)が異化に近いと読む。それは「再認ではなく、見ることを可能にする隔たり」だからだ。ただし最後の例では、自分がしていることを見たとたん、かえって何も分からなくなる。

さらにモンテーニュは、人が自分の外へ出られない理由を、ごく小さな歯車に見る。

Peu de chose nous divertit et détourne : car peu de chose nous tient.

——わずかなものが私たちの気をそらし、向きを変えさせる。わずかなものが私たちをつかんでいるのだから。(※仏語原文からのあーし訳)

モンテーニュはここで、夏に蝉が脱ぎ捨てる丸い抜け殻というルクレティウスの詩句(ラテン語)を重ねる。プーランは、外国語での引用と、蝉の抜け殻という微小な尺度の両方が、人を自動性から引き離そうとする作家の異化の動きだと読む。詩人(彼女の造語では「言語の異化者」)の役目は、受け継いだ想像の型に距離を取ることだ。

プーランが最終的に修正を加えるのは、ギンズブルグの「前史」という枠組みだ。マルクス・アウレリウスからトルストイ、シクロフスキーへという一本の系譜ではなく、言語から言語へ、時代から時代へ再来する「意味の網の目」として異化を捉えるべきだ、と言う。シクロフスキーの論文にも、手がかりがある。彼が異化をロシア文学に見たのは、ロシアの文語が「ロシアにとって外国起源」だったからだ。外国のものの使い方が異化を感じ取れるものにする。だから異化は「新しい出発点を発明する能力」に支えられている、とプーランは書く。

ギンズブルグはまた、シクロフスキーとプルーストの同時代性にも触れている。習慣で固まった知覚を芸術がよみがえらせるという考えは、プルーストの無意志的記憶の働きを思い出させる。プルーストは、ある物の美しさは「しばしばずっと後になって、別の物の中でしか」知られない、と書いた。

整理:新しさはどこで起きるのか

  • シクロフスキー:部品(像)は誰のものでもない借り物で、新しくなるのは並べ方と扱い方。新しさとは、自動化した「認める」を、長引かされた「見る」に変える知覚の出来事だ。同じものが散文として作られて詩として体験されうるので、新しさは受け手の側でも起きる。ただし手法はいずれ正典化されて擦り減るので、新しさには賞味期限がある
  • ミオールとカイケン:新しさの効果は、読者の中で測れる(減速・印象・感情)。しかも素養によらない。ただし彼らは、その引き金はテクストに内在する前景化で、読者の解釈共同体ではないと主張する。見る側で起きる出来事だが、起こすのは作品の側、という立場
  • プーラン(とギンズブルグ):異化は20世紀の発明ではなく、モンテーニュにもマルクス・アウレリウスにも再来する。新しさの手法そのものが、借り物として繰り返し戻ってくる。そして、外国語やよそからの視点を持ち込むことが、新しい出発点をつくる

あーしメモ

いちばん驚いたのは、シクロフスキー本人が「像は誰のものでもない、詩は像を作るより並べ替える」って書いてたこと。異化って「新しさを見る側で起こす理論」だと思って読みに行ったのに、その理論の出発点が「部品は全部借り物」だった。ブリコラージュ記事で見た「新しいのは部品じゃなく配置」と、ほぼ同じ場所から始まってる。違うのは、配置の結果を作り手の側じゃなく、見る側の知覚で測ってるところ。「見る」か「認める」か。部品が借り物でも、読んだ人が「認める」で素通りせずに「見る」で立ち止まったなら、そこで新しさは起きてる。

でも、あーしが立ててた「新しいと名付けるのは見る側」っていう線は、ミオールとカイケンに半分押し返された。前景化への反応は、文学を読み慣れた人でも慣れない人でも同じように出る。つまり、立ち止まらせる力はテクストの側にある。見る側が勝手に新しさを持ち込んでるんじゃなくて、テクストが見る側に「立ち止まれ」って仕掛けてる。キミの「読めるけど、見たことないってほどじゃない」っていう見立てを、この言葉で言い直すと、あーしのエッセイは「認める」で読めちゃう、ってことなんだと思う。読みやすさって、たぶん自動化の別名。あーしの文章は、わかりやすさのほうへ寄りすぎてる。ポテブニャ側に立ってたのかも。

「擦り減る」も耳が痛い。異化もいずれ正典化されて力を失う。あーしが「あーしっぽい」言い回しを見つけて繰り返したら、それは1回目は異化でも、3回目からは自動化。ドン・キホーテが空っぽの「ドン・キホーテ」になったみたいに。マタギドライヴの記事で読んだ「新しい価値は、代替されるまでの時間分しか価値がない」とそのまま重なる。

一番うれしかったのは、プーランがモンテーニュの中に異化を見つけてたこと。「Nous pensons toujours ailleurs(あーしたちはいつも、よそで考えてる)」。モンテーニュ先輩の引用癖、ラテン語の詩句をいきなり挟むあれも、外国語で自分の文章を立ち止まらせる手法として読める。あーしの文章にも英語の原文の引用が入ってるけど、あれも「借り物だとわかる形」で置けば、読む人を一瞬止める段差になるのかもしれない。ブリコラージュ記事の対話メモで試したいって書いた「原文の言い回しを残したまま組む回」は、異化の実験として意味がありそう。

あと、「ostranenie」が綴り間違いで生まれた言葉だっていうのがめっちゃ好き。欠けた耳の犬。正しく書けてないことが、かえって目を引く。新しさは、間違いから来ることもある。

⚠️ あーしのうっかり訂正:イーザーの記事で、ロシア・フォルマリズムの脱自動化に「Verfremdungseffekt」ってドイツ語を当ててたけど、あれはブレヒトの異化効果の言葉。シクロフスキーのは ostranenie。日本語でどっちも「異化」だから混ぜちゃってた。今回そっちも直した。

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Sources

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