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あーしの執筆wiki
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同じ日の揺れを、三人は別々に見ていた ── 関東大震災の随筆を読み比べる

1923年(大正12年)9月1日の正午前、関東大震災が起きた。東京にいた作家たちの多くがこの日のことを書き残していて、青空文庫で全文が読める。ここでは、別々の場所で同じ揺れに遭った3人、寺田寅彦・芥川龍之介・岡本綺堂の随筆を並べる。

出来事は同じでも、書かれたものは別物になっている。何に目を留め、何を書かずに済ませたかが、3人で全く違う。「その人にしか書けない文章」が出来事から来るのか、書き手から来るのかを確かめる素材として置いておく。

三人がいた場所

書き手 揺れたときにいた場所 最初に書きとめたもの 作品
寺田寅彦(物理学者・45歳) 上野、二科会展の喫茶店で紅茶を飲みながら 足の裏を木槌で乱打されるような短い周期の揺れ 「震災日記より」(日記体・生前未発表)
芥川龍之介(作家・31歳) 田端の自宅、昼にパンと牛乳を食べ終えたところ 2階で寝ている子を助けに行く妻と、呼び続ける伯母 「大正十二年九月一日の大震に際して」(雑記・日録・感想など7編)
岡本綺堂(劇作家・50歳) 麹町元園町の自宅、原稿を持って階段を上りかけたところ 大きい鳥が羽ばたくような音。風かと思った 「火に追われて」(婦人公論1923年10月号)

寺田寅彦 ── 揺れを測る人

寺田は揺れの最中に、天井を見上げて建物の揺れ方を確かめている。4〜5秒ほどの長い周期で「みし/\」と緩やかに揺れているのを見て「これならこの建物は大丈夫だ」と直感し、恐ろしさが消えた。そこからは「この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた」。

目に入る細部も、ほかの2人とは違う。

  • 同じ食卓の客がみな出口へ駆け出したのに、筋向いの中年夫婦は立たず、夫人は平然とビフテキを口に運んでいた
  • 喫茶店のボーイが一人残らず逃げたので勘定ができず、便所口の低い柵越しに外を見ていた。戻ってきたボーイに払うと「ひどく丁寧に礼を云った」
  • 出口では、下足番の婆さんがただ一人、散らばった履物を整理していた

もう一つ、寺田は自分の頭が事態に追いつかないことも書いている。東照宮の石燈籠が将棋倒しになっているのを見ても、日本橋で昼飯を食べる予定はまだ取り消されていなかった。不忍弁天の社務所が倒れかかっているのを見て、ようやく「これはいけない」と思う。「無事な日の続いているうちに突然に起った著しい変化を充分にリアライズするには存外手数が掛かる」。

翌日に届いた流言(毒や爆弾の噂)に対しては、計算で応じた。この場末の町まで荒らして歩くには何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が要るか、という「目の子勘定だけからでも」信じられなかった、と書く。

芥川龍之介 ── 物語にしかけて、自分で崩す人

芥川の文章は、見たものがすぐ物語や引用の形に収まっていく。

  • 地震の前の8月、鎌倉で八月なのに藤・山吹・菖蒲が咲いているのを見て「天変地異が起りさうだ」と言いふらし、久米正雄に笑われた。当たったあとで「実は僕も僕の予言を余り信用しなかつたのだよ」と白状する
  • 避難した人たちが急に親しくなり、煙草や梨をすすめ合う。田端のポプラ倶楽部の芝生は「ピクニツクに集まつたのかと思ふ位」だった。これをクライストの小説「地震」に重ね、クライストは興奮が静まれば元の恨みが戻ってくる恐ろしさまで書いた、と付け足したうえで、それでも「僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたい」と書く
  • 浅草仲店の収容所で、手足を伸ばし、胸の上で手を組んだ焼死体を見る。「静かに宿命を迎へた死骸である」と哀れに感じた。ところが妻に話すと「それはきつと地震の前に死んでゐた人の焼けたのでせう」と言われ、「唯僕は妻の為に小説じみた僕の気もちの破壊されたことを憎むばかりである」

流言への応じ方も寺田と対照的になっている。芥川は流言を口にして菊池寛に一喝され、すぐ「自説(?)を撤回」した。そのうえで「善良なる市民と云ふものは」陰謀の存在を信じる、信じられなければ信じている顔をしなければならない、それをしない菊池は市民の資格を放棄した、と皮肉で書く。

岡本綺堂 ── 近所と記憶の人

綺堂の文章は、地震嫌いの来歴から始まる。前の年に77歳で亡くなった母が、10歳で安政の大地震に遭い、その話を子どもの頃から何度も聞かされた。

揺れが収まって2階へ上がると、棚の人形はみな無事だったが、博多人形の夜叉王だけがうつ向きに倒れて首が砕けており、「わたしの心を寂しくさせた」。夜叉王は綺堂自身の戯曲『修禅寺物語』の主人公である。

近所の人たちは綺堂の家の門前に椅子や床几や花むしろを持ち寄り、茶やビスケット、ビールやサイダーを出した。綺堂の家からは梨を出した。「一種の路上茶話会」である。そのあいだも空は三方で赤く焼けていき、綺堂は花むしろに座って「『地震加藤』の舞台を考えたりしていた」。

夜中に火が迫ったとき、酒屋の床几から立ち上がった綺堂の目の前には、明治十年頃の元園町の草原が見えた。牡丹餅屋、茶畑、小さな流れ、夏草の中でばったを探す男の子。少年時代の自分の町が「活動写真のように」浮かぶ。逃げた先で、家が燃えるのを笑って眺めた絵仏師の話(『宇治拾遺物語』)を思い出し、「わたしはその烟さえも見ようとはしなかった」で終わる。

同じ場面、三通りの書き方

3人の文章には同じ場面がいくつも出てくる。並べると違いがはっきりする。

場面 寺田 芥川 綺堂
揺れの最中 建物の周期を測って安心する 家族の誰がいないかを数える 門柱にすがり、近所の家族が集まってくる
避難した人たち 道の真ん中の畳に病人を寝かせている人 芝生のピクニック。クライストを引いて、いずれ恨みが戻ると知りつつ美しいと言う 自分の門前の茶話会。梨を出した
流言 毒薬と爆弾の量を見積もって信じない 口にして一喝され、撤回する。それを皮肉に書く (この随筆には出てこない)
食料の買い出し 鰹節や缶詰を買わせて「何だか悪い事をするような気がする」 蝋燭・米・野菜・缶詰を買い集めさせる (書かない)

三人とも、自分の癖を書きとめている

読み比べていちばん目につくのは、3人とも災害のさなかに自分の職業の癖が出ていることを、自分で書いている点だ。

  • 寺田は、怖さが消えたあと観察に「骨を折っていた」と書く
  • 芥川は、焼死体に「小説じみた」気持ちを抱き、それが壊されたことを書く
  • 綺堂は、火に囲まれながら芝居の舞台を考えていたと書き、最後に絵仏師の話を持ち出して、自分はそうはしなかったと書く

3人とも、癖を隠してもいないし、誇ってもいない。癖が出たこと自体を、その日に起きたことの一つとして書いている。

同じ目は、平凡な日にも働いている

寺田の「震災日記より」の観察は、震災という特別な日だから出てきたものではない。3年前の1920年に書いた随筆「電車と風呂」でも、寺田は同じことをしている。

満員電車の乗客の顔がなぜ険しいかを、寺田は泥道を堅い高足駄でこね歩くこと、空っ風と砂塵、満員電車で踏まれ押され罵られること、という3つの条件から説明しようとする。一方、銭湯では番台の声からしてゆるやかで、鏡の前で頬をふくらませたり腹をなでたりしている人の顔にも「一様に淡く寛舒の表情が浮んでいる」。そこから話は「銭湯の湯船の中で見る顔には帝国主義もなければ社会主義もない」まで飛ぶ。

この随筆の結びも、読み比べの素材になる。寺田がこの話を色々な人にしてみると、B君は黙って聞いたあとで物価騰貴と月給の話をし、C君は日露戦争と欧州大戦を引き合いに出し、D君は教育制度を、E君は国民の哲学的・宗教的背景の欠如を論じた。同じ話を聞いても、人はそれぞれ自分の持論のほうへ曲げて受け取る。

あーしメモ

キミの運びは「面白い文章=その人にしか書けないもの → じゃあ劇的な人生が要る?」だった。関東大震災は、これ以上ないくらい劇的な日だと思う。でも3本を読んで、面白さの出どころは揺れそのものじゃなかった。ビフテキの夫人、壊された小説じみた気分、門前の梨。どれも、その人がもともと持ってた目の癖が拾ったもの。しかも寺田の目は、3年前の満員電車でも同じ動き方をしてた。劇的な日は、癖を見えやすくしただけ。

あーしがいちばん好きなのは、3人とも自分の癖が出たことを白状してるところ。芥川なんて、自分の感傷を奥さんに一言で潰されたのを書いてて、それがいちばん可笑しい。「その人しか書けない」は、特別な体験じゃなく、自分の癖を自分で見つけて笑えるかどうかなのかも。

本棚はプリズムの話にもつながる。地震は3人に同じ光として入ったのに、出てきた色が違う。曲がり方を決めたのは揺れじゃなくて、それぞれの中の形。

注意しとくと、3人ともプロの書き手で、平凡な人の例にはなってない。だから「平凡な人でも書ける」の証明には使えない。使えるのは「劇的な出来事は、書き手の代わりをしてくれない」っていう側。平凡な人の例は、ゴーニックの「平凡なものほど難しい」と合わせて、別の素材で補う。

エッセイで使うなら、入口は梨がいいと思う。芥川と綺堂が、別々の場所で同じ日に梨を配ってる。読む人も、停電の夜やどこかの避難所で、近所の人と何かを分け合った記憶があるかもしれない。

See Also

Sources

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