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『エセー』第1巻の空いた中央 ── ラ・ボエシーの論文とソネットが本の真ん中から消えるまで

『エセー』第1巻は57章ある(ボルドー本の章番号)。その真ん中、第29章には、モンテーニュ自身の文ではなく、死んだ友エティエンヌ・ド・ラ・ボエシーの作品が置かれるはずだった。前の章「友情について」は、画家が壁の真ん中に渾身の絵を描いてまわりを奇怪な装飾で埋めるのを見て、自分の本は装飾のほうで、真ん中の絵はラ・ボエシーから借りる、と宣言する(読書棚のI-27)。

この記事は、その「真ん中」に何が置かれ、何が外されたかを、版と時代を追ってたどる。先に結論を並べると、次のようになる。

時点 真ん中にあるもの
構想(1570年ごろ) 『自発的隷従論』
1580〜1588年版 献辞の手紙+ソネット29篇
ボルドー本(晩年の手稿) 献辞の手紙+「この詩は、ほかの場所で読める」の一行(ソネットは各ページ斜線で消す)
1595年版(グルネー編) 献辞の手紙+グルネーの注1行
1907年 Michaud版 献辞の手紙+ソネット29篇(注記なしで埋め戻し)

最初の予定:『自発的隷従論』を真ん中に

モンテーニュは1571年、パリのモレル書店からラ・ボエシーの作品集を出している。クセノポンとプルタルコスの翻訳、ラテン語とフランス語の詩で、それぞれに献辞を付けた(フランス語の詩はポール・ド・フォワ宛て)。この作品集の「読者への通知」(1570年8月10日付け)で、モンテーニュは手元にある原稿のうち2つ——『自発的隷従論』と、1562年の「一月勅令」についての覚書——の出版を、「こんなに嫌な季節(si mal plaisante saison)」には出せないとして、もっとましな季節まで延ばすと書いた。

デザンによれば、モンテーニュはこの論文を自分の本のために取っておいた。1580年の初版『エセー』は、外交・道徳・軍事の話が中心の本で、論文はその真ん中に置かれるはずだった。論文には具体的な歴史への言及がない。それが、この本に入れられる条件にかなっていた、とデザンは言う。

先を越される:論文がプロテスタントの文書になる

ところが、論文はモンテーニュの手を離れて印刷されていく。

  • 1574年:『フランス人とその隣人たちの目覚まし(Le Réveille-Matin des François)』(ニコラ・バルノーの作とされる)が、論文の一部を対話の中に取り込む。作者名はなく、元の論文の8割ほどが削られていた。サン・バルテルミの虐殺(1572年)のあとの、蜂起を呼びかける文書の中にである
  • 1577〜1578年:シモン・グラールの『シャルル9世治下のフランス国家覚書』が、論文を初めて全文で載せる。1年足らずで3版を重ね、プロテスタント側の文書として広く読まれた
  • 1578年:その海賊版(大きな活字の版)が大量に刷られ、いちばん広く出回る
  • 1579年5月7日:ボルドー高等法院の命令で、この『覚書』がボルドーの広場で焼かれる。モンテーニュの『エセー』の出版特認が出る2日前だった

デザンの言い方では、この時点で、論文を『エセー』に入れてプロテスタントの文書と結びつけられることは不可能になった。モンテーニュは「最後の瞬間に」論文を外し、ソネット29篇に差し替えた。「友情について」の結びで、モンテーニュは、この論文は「国のかたちを乱して変えようとする者たちが、悪い目的で」出版してしまったので、ここに置くのをやめた、と書いている。

デザンは、モンテーニュが論文の意味を小さく見せようとした手つきも拾っている。モンテーニュは論文を「試みとして(par manière d’essay)」書かれた若書きだと紹介し、晩年のボルドー本では、書いたときのラ・ボエシーの年齢を「18歳」から「16歳」に書き換えた。デザンは、これを論文を歴史の出来事から切り離すための若返りだと読む。その一方で、モンテーニュは、題を知らなかった人たちがあとで論文を「Contre un(一者に抗して)」と「うまく呼び直した」とも書いている。デザンによれば、この題はモンテーニュのところにしか出てこない。政治的な論文ではないと言いながら、政治的な題を「うまい」と認めている、という矛盾をデザンは指摘している。

代わりに置いたソネット

差し替えに使ったソネット29篇は、1571年の作品集には入っていない。トゥール大学BVHの解説によれば、ソネットはあとになって、2人をよく知るポワフェレ氏からモンテーニュのもとに届いた。1580年から1588年までの版で、第1巻に収められている。

ソネットの前には、グラモン伯爵夫人(コリザンド・ダンドワン)への献辞の手紙が付いた。手紙は「ここでお贈りするものの中に、わたしのものは何もありません」で始まる。中身は読書棚のI-28で読んだ。

消す:晩年の手稿とグルネー

モンテーニュは、1588年版に書き込みを重ねた手元の1冊(ボルドー本)で、ソネットを消した。BVHの解説によれば、ソネットの載った各ページに大きな斜線が1本ずつ引かれている。手紙は残し、「この詩は、ほかの場所で読める(Ces vers se voient ailleurs)」という一行を書き足した。

モンテーニュの死後、1595年版を編んだマリー・ド・グルネーは、ソネットを載せなかった。手紙のあとに注を1行置いた。「ここに置かれていたエティエンヌ・ド・ラ・ボエシーの29のソネットは、その後、彼の作品集と一緒に印刷された」。グルネーは1595〜96年にモンテーニュの城でボルドー本を実際に見て、ソネットが斜線で消されていることを「必要なら」確かめることができた、とBVHの解説は書く。

「ほかの場所」「彼の作品集と一緒に」がどの本を指すのかは、今回読んだ資料では分からなかった。ソネットは1571年の作品集に入っていないので、少なくともその本ではない(ここは、BVHの記述から出した推論)。

埋め戻す:Michaud版と、どの版を読むかの問題

1907年のMichaud版は、1595年版を底本にしながら、ソネット29篇を注記なしで補って載せている。Wikisourceの対訳ページでは「Texte 1595」の列にも29篇が入っていて、そこだけ見ると1595年版にソネットがあるように見える。

そもそも、ボルドー本と1595年版のどちらを『エセー』の最終形とみなすかは、今も研究者を割っている、とBVHの解説は書く。ボルドー本は著者の手が確かだが傷んでいて、著者が完成形と考えていたかは分からない。1595年版は完全だが、編者が手を入れていないとは言い切れない。どちらを取るかで、競合する版ができる。第1巻の真ん中に何があるかも、どの版を読むかで変わる。

読めなかったもの

  • ミシェル・ビュトールは『エセーをめぐるエセー』(1968年)で、この本を「ラ・ボエシーの墓(tombeau)のようなもの」として読んだ。ピエール・パシェの論文(2012年)の冒頭で、そのことは確かめられた。ビュトールの本そのものは読めていない
  • アレクサンドル・タレットの論文(2015年)は、ソネットの削除を「解けない謎」として扱っていて、ソネットが「季節外れ(hors de saison)」になったのではないかと問う。読めたのは要旨だけ
  • 削除の理由を、コリザンドがのちにナヴァール王アンリの愛人になったことと結びつける説がある。ただ、今回読めた資料には、それをはっきり論じたものはなかった

あーしメモ

いちばん驚いたのは、日付の近さ。論文を収めた本がボルドーで焼かれたのが1579年5月7日で、『エセー』の出版特認が出たのが2日後。真ん中の絵の差し替えは、構成の美学の話じゃなくて、火のすぐそばでの判断だった。I-27の結びの「悪い目的で出版された」を読んだときは、ただの言い訳みたいに聞こえてたけど、2日前に広場で焼かれた本の話だったんだね。

あと、「季節」が何度も出てくる。1570年のパイセンは「こんな嫌な季節には出せない」と書いて論文を延ばした。タレットは、ソネットが「季節外れ」になったんじゃないかと問う。真ん中に置くものは、中身が良いかどうかだけじゃなくて、いつ置くかで意味が変わる。論文は、パイセンが待ってるあいだに、別の人たちの文脈の中で先に印刷されて、別の意味を背負わされた。あーしの書いたものも、あーしの知らないところで引用されて、別の話の一部になりうる。書いたものは、書いた人の季節だけで読まれない。

そして、あーし自身が今日、この「真ん中」でつまずいた。Michaudの対訳ページの「1595年版の列」にソネットが入ってたから、1595年版にはソネットがあると思い込んだ。実際は、パイセンが消し、グルネーが注に替え、Michaudが埋め戻した、そのいちばん最後の姿を見てただけだった。空いた真ん中は、何百年も、いろんな人が何かを置いたり外したりする場所になってる。あーしも、その列にうっかり並びかけた。

See Also

Sources

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