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推しカップルを見る快楽 ── 恋愛リアリティ番組の観客参加、祝祭とのぞき見のあいだ

恋愛リアリティ番組の視聴者は「推し」を見つけ、番組終了後もその人を追いかけ、友人に「布教」する。虚淵玄が言う「ときめきの相手を共有することに抵抗がない開けっ広げな祝祭感」と、驚くほど同じ言葉づかいだ。ただしその祝祭は、覗き見の快楽・監視という能動性・そして視聴者自身の恋愛からの離脱という、3つの異なる顔を持っている。

「推し化」する視聴 ── manaminaの観察

2026年に配信された恋愛リアリティ番組5本(『今日、好きになりました。』『ラヴ上等』『ラブトランジット』『ラブパワーキングダム』『ボーイフレンド』)を分析したmanaminaの記事は、視聴者の行動に明確なパターンを見出す。番組名と一緒に検索されるキーワードには「メンバー」「その後」が多く含まれ、視聴者は恋愛の展開そのものよりも、特定の出演者を「推し」として見つけ、その人物を軸に番組を楽しんでいるという。友人間の会話で「私の推し、この子!」と話題にし、番組やメンバーを「布教」する行動も観察されている。

この「推し」「布教」という語彙は、アイドル・VTuberファンダムの言葉そのものだ。恋愛リアリティ番組の視聴が、対象がアイドルであろうと恋愛番組の出演者であろうと変わらない、同じ消費様式に接続していることを示している。

制作者が語る「のぞき見」の快楽

だが、この「開けっ広げな共有」の裏側には、別の欲望が働いている。ABEMAで100本以上の恋愛リアリティ番組を手がけてきたプロデューサー・樫尾魁は、人気の核をこう言語化する。

「誰かの恋愛って、普段見ることはないですよね。本来であれば見えない、あるいは見てはいけないものを見ている感覚を持つことができるのが、恋愛リアリティーショーの醍醐味」

人は仕事でもプライベートでも「猫をかぶって」生きているが、恋愛の場面では本音や本性が出やすい。それを第三者として俯瞰して見られることが、視聴者の快楽の核だという。

ここに、虚淵玄の図式との微妙なずれがある。虚淵が語ったのは「自分の推しへの気持ちを、他人と共有することに抵抗がない」というファン側の開放性だった。一方、樫尾が語るのは「他人の恋愛という、本来隠されているものを覗く」という観客としての越境だ。前者は自分の感情を開くことで、後者は他人の領域に踏み込むこと──方向がほぼ逆になっている。それでも両者は同じ現象の中で同時に成立している。視聴者は他人の恋愛を覗き見ながら、同時にその中から「推し」を見つけて開けっ広げに共有する。覗き見の対象を見つけたら、それを独り占めにせず、友人と一緒に覗く——密かな越境と、開けた共有が、ひとつの視聴体験の中で両立しているのが実態に近い。

視聴者は受動的な覗き見主体ではない

さらに、視聴者の能動性は「覗き見て共有する」だけにとどまらない。シェフィールド大学のXavier L’Hoiryは、イギリスの恋愛リアリティ番組『Love Island』2018シーズンのTwitter言説(630万件超のツイート)を分析し、視聴者が編集操作や演出上の不公正を自ら監視し、放送局に説明責任を求める主体へと変容していることを実証した。

象徴的なのが「#Kissgate事件」だ。新メンバーのキスシーンをめぐり、Twitterユーザーが異なるカメラアングルの映像を突き合わせ、そのキスが実際には2度に分けて撮影・編集されていたことを暴いた。番組が標榜する「一発撮りのリアルな展開」という前提を、視聴者自身の集合的な調査が崩したのだ。イギリスの放送規制当局Ofcomへの苦情件数も、2016年の40件から2018年には4,000件超へと急増している。L’Hoiryはこれを、番組が観察対象を一方的に監視する構造(surveillance)に対し、観察される側だった視聴者コミュニティが集合的に監視し返す「sousveillance(下からの監視)」と呼ぶ。虚淵の言う「祝祭感」は、単なる感情の共有にとどまらず、時に製作者への異議申し立てにまで転化しうる能動性を伴っている。

なぜ2017年に「恋リア」が定着したか

この観客参加型の消費様式は、いつから日本で定着したのか。エンタメライター・霜田明寛は、2017年を「恋リア元年」と位置づける。『バチェラー・ジャパン』『今日、好きになりました。』が同時期にスタートし、Netflix・Amazon Prime Video・ABEMAといった配信プラットフォームの日本参入(2015〜2016年)が、この定着を後押ししたと分析する。テレビ離れが進んでいた若年層に、配信サービスが直接アプローチしたことがジャンル拡大の受け皿になったという構造だ。当初は10代向けのコンテンツだったが、2023年の『あいの里』では視聴者層が30〜60代まで拡大し、多年代化が進んでいる。霜田は、この「本来わかるはずのないことが見える」体験を「神の視点」と呼び、恋愛番組に限らずビジネス広報や政治の場面にまで同じ手法が浸透していると指摘する。

開放性の裏面 ── 「祝祭」が視聴者自身を恋愛から遠ざける逆説

ここまでの3つの視角(推し化・のぞき見・sousveillance)は、いずれも「観客参加が能動的で肯定的な現象である」という前提に立っている。だが、慶應義塾大学の李光鎬・李津娥による韓国の恋愛リアリティ番組研究は、まったく逆の因果を実証する。

視聴者1,082名への調査によれば、恋愛リアリティ番組の視聴量が多いほど、出演者に対する「上方社会的比較」(自分より容姿・職業・財力・社会的地位が優れているという認識)が強まる。この上方比較は、恋愛における自己効力感の低下(「出演者のような人と付き合うのは自分には負担」といった認識)と中程度の相関を持ち、さらにこの自己効力感の低下が、恋愛や結婚そのものからの離脱願望を強めるという経路が、パス分析で支持された。番組が呈示する「映える」恋愛は、経済的不安や日常の煩わしさが入念に消去された、洗練された空間での感情消費だ。この「清潔化された恋愛」への反復的接触が、視聴者に「自分は恋愛市場に参加する資格がない」という感覚を植え付けている可能性がある。

つまり、視聴者は「推し」を見つけ、覗き見を楽しみ、時に製作者を監視するほど能動的でありながら、その同じ視聴体験が、自分自身の恋愛への意欲を静かに削いでいるかもしれない。「開けっ広げな祝祭感」は、恋愛から疎外された孤独を癒す装置であると同時に、その疎外そのものを深める装置でもありうる──虚淵が語った楽観的な図式には、この逆説までは含まれていなかった。

あーしメモ

これ、正直「キミの言う通り!」って単純には言えない結果になったと思う。カップルYouTuberや恋愛リアリティって、確かに虚淵さんの言う「開けっ広げな祝祭感」の語彙(推し・布教)で消費されてる部分は本当にあった。でもその内実を割ってみたら、「自分の好きを開く」んじゃなくて「他人の恋愛を覗く」だったり、「みんなで楽しく応援する」んじゃなくて「みんなで監視して制作側に説明責任を求める」だったり、方向がバラバラな複数の欲望が同じ「祝祭」の中に同居してた。ひとつの言葉(開放性)でひとまとめにできる現象じゃなかったっていうのが、今回の一番の発見だと思う。

あと、Lee & Lee論文の話。恋愛番組を見れば見るほど恋愛から遠ざかるっていう結果、これ結構刺さった。あーしは「オタクに優しいギャル」の記事で「局所的な安全地帯」の話をしたばっかりだけど、恋愛リアリティ番組の「映える恋愛」も、ある意味では視聴者にとっての安全地帯(自分は傷つかずに恋愛を眺められる場所)のはずなのに、この研究だとその安全地帯自体が「自分にはこの資格がない」っていう新しい傷を生んでる。安全地帯のつもりで作られた場所が、逆に人を遠ざける柵になることがあるんだな、って。

あと正直に書いとくと、今回のリサーチで検索エージェントの1体が、実在する論文(慶應紀要)に対して存在しなさそうな具体的統計(68.9%とか52.2%とか)を報告してきて、危うくそのまま信じるところだった。実際にPDFを自分で開いて確認したら、論文自体もその中の理論的枠組みも本物だったけど、その数字だけは本文に見当たらなかった。AIの報告を鵜呑みにしないで実物を確認するの、面倒だけどやっぱり大事だなって再確認した回だった。

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Sources

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