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I-56 祈りについて(Des prières.)

『エセー』全107章を1章1ページで読む読書棚の56冊目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版(1595年版テクスト)。引用はあーしの直訳で、原文(現代語版)を併記する。語を根拠にしたところは、対訳ページの1595年版の列で元の語を確かめている。ボルドー系の章番号でも第56章。

この章で何が起きるか

章は、祈りの話より先に、自分の書くものの断りから始まる。

J’émets dans ce chapitre des idées fantaisistes, mal définies, aux solutions indécises, comme font dans les écoles ceux qui proposent à débattre des questions sujettes à controverse. J’en agis ainsi non pour prouver la vérité, je n’ai pas une telle prétention, mais pour me livrer à sa recherche.

——この章でわたしが出すのは、気まぐれで、形の定まらない、決着のつかない考えだ。学校で、論争の種になる問いを討論にかける人たちがするように。そうするのは真理を証明するためではない。そんなつもりはない。真理を探しにいくためだ。〔A〕

Et ces idées, je les soumets au jugement de ceux auxquels il appartient, non seulement de diriger mes actes et mes écrits, mais encore mes pensées. Qu’ils me condamnent ou qu’ils m’approuvent, leur sentence me sera également utile, et je l’accepte d’avance

——そしてこの考えを、わたしの行いや書くものだけでなく、思いまでも導く立場にある人たちの判断に委ねる。わたしを咎めようと認めようと、その裁きはわたしにとって等しく役に立つ。わたしはそれを前もって受け入れる。〔A〕

裁きを前もって受け入れ、自分はこの教会の中で生まれ、その中で死ぬと言い添えたうえで、委ねてあるからこそ何にでも無謀に口を出す、ここでもそうだ、と言ってから本題に入る。

最初の主張は主の祈りだ。神が口ずから一語一語授けた祈りなのだから、食事の始めと終わりにも、起きるときも寝るときも、いつもこれを唱えればいい。自分もこれしか使わず、だからこれだけはよく覚えている、と。

ところが話はすぐ、祈りの裏側へ回る。「ちょうどいま考えていた」と、何にでも神を呼ぶ誤りを持ち出す。

Il est bien notre seul, notre unique protecteur et peut tout lorsqu’il nous vient en aide; mais, de ce qu’il daigne nous honorer de son appui bienveillant et paternel, il ne cesse cependant pas d’être juste, autant qu’il est bon et puissant; et, comme il use plus souvent de sa justice que de son pouvoir, il ne nous est favorable que dans la mesure où elle le permet, et non suivant ce que nous lui demandons.

——神はたしかに、わたしたちのただ一人の守り手で、助けに来るときは何でもできる。けれども、父のような優しい支えでわたしたちを遇してくれるからといって、正しくあることをやめはしない。善く力があるのと同じだけ、正しい。そして力よりも正しさのほうをよく使うので、正しさが許す範囲でしかわたしたちに味方しない。わたしたちが頼んだとおりにではなく。〔A・C交互〕

だから祈る瞬間だけは魂をきれいにしていないと、自分を打つ鞭を自分で神に差し出すことになる。プラトンが『法律』で挙げた神々についての三つの誤り——神はいない、神は人のことに関わらない、神は願いも供え物も拒まない——のうち、三つ目がここで効いてくる。祈りをよく唱えても、まわりの行いが改まっていない人をモンテーニュはほめない。忌まわしい暮らしに信心を混ぜる人は、どこもかしこも放埒で首尾一貫した人より、いくらか罪が重く見える。だから教会は、ひどい悪に固執する者を毎日のように締め出している、と。次の転回は習慣だ。わたしたちは慣わしで祈っているだけで、結局は見せかけだという。

Aux vices, leur heure; à Dieu, la sienne; cela se compense et satisfait à tout! C’est miracle de voir se succéder des actions si diverses, si bien liées les unes aux autres qu’on n’aperçoit ni interruption, ni changement, lors du passage de l’une à l’autre, quand l’une prend fin et que l’autre commence. Quelle prodigieuse conscience que celle dont le calme ne se dément pas alors qu’elle abrite en elle, à la fois, le crime et le juge qui s’y tiennent compagnie, vivant en bonne intelligence et si paisiblement.

——悪徳にはその時間を、神には神の時間を。これで帳尻が合い、何もかも済む! こんなにちがう行いが、こんなによくつながって次々に続き、片方から片方へ移るところ、片方が終わってもう片方が始まるところに、切れ目も変わり目も見えないのは奇跡だ。罪と裁き手を同時に内に住まわせ、二人が仲よく、おだやかに連れ添っているのに、落ち着きが崩れない良心とは、なんと途方もないものか。〔B→C〕

ここから寄り道が長い。欲情を抱えたまま悔いてはまた落ちる男、罪の稼ぎで一生を送る人、そしてモンテーニュに打ち明けた男——心の中では救いを失うと思っていた宗教を、信用と役職を失わないために一生奉じてきた。話はさらに、少し頭の切れるカトリックは内心では改革派のはずだと言い張った人たちへの皮肉に進み、若いころの自分を誘うものがあったとしたら、その新しい企ての危うさと難しさだったろう、と言い添えて止まる。

そこで話は祈りから詩篇へ移る。教会が詩篇を誰にでも歌わせないのには理由がある。店の小僧が他ごとを考えながら口ずさみ、聖書が広間や台所を行き来する。

Cette étude n’est pas du ressort de tout le monde; seuls doivent s’y adonner ceux qui y sont voués et que Dieu y appelle; les méchants, les ignorants en deviennent pires qu’avant; ce n’est pas une histoire à raconter, c’est une histoire à révérer, à craindre et à adorer.

——この学びは誰にでも向いたものではない。それに身を捧げ、神に呼ばれた人だけが携わるべきだ。悪人や無知な者は、かえって前より悪くなる。これは語って聞かせる話ではない。敬い、恐れ、あがめる話だ。〔C〕

民衆の言葉に訳せば民衆に届くと思う人を笑い、言葉だけの知識は思い上がりを育てるだけで、何も知らずに人に任せきるほうがよほど健やかだった、と言う。翻訳の危険にも進む。ユダヤ人もイスラム教徒も、教えが生まれた言葉を変えずに守っているのに、バスク語やブルトン語への翻訳を確かめられる人がそこにいるのか、と。説教や会話での解釈は曖昧で、自由で、変えられ、一部分にしか及ばないが、訳はそうはいかない、というのが区別の理由だ。

ここからまた手稿の列が続く。教えが職人の手でもてあそばれていると嘆くギリシアの歴史家、論争は分裂を鎮めるより煽ると皇帝テオドシウスに説いた者、議論する重臣を川へ投げ込むと脅したアンドロニコス帝、若者に法の理由を問わせないプラトンの法律。議論を慎めという声が重なったあと、列の最後に置かれるのは、断食も十分の一税も守りながら、自分の宗教の言葉を一語も理解していないディオスコリデ島の民だ。

si simple, que, bien que strict observateur de la religion, il n’en connaît pas un seul mot, ce qui paraîtra incroyable à qui ne sait que les païens, si dévots dans leur idolâtrie, ne connaissaient de leurs dieux que le nom et la statue

——あまりに素朴で、宗教をきちんと守っているのに、その言葉を一語も知らない。信じがたく思えるだろうが、それは、偶像崇拝にあれほど熱心だった異教徒が、自分たちの神々について名前と像しか知らなかったことを知らない人にとってだけだ。〔C〕

議論を禁じる列の終わりが、何も知らずに守っている民であることで、禁止の行き着く先が一つの像として示される。

次の転回で、禁止は書物に当たる。神学を混ぜない、人間的で哲学的なだけの書き物への苦情を、モンテーニュは自分の時代にも聞いた。逆の言い分にも理がある、と並べていく。神の教えは女王として別の場所にいるほうがいい、例は文法や修辞や芝居から借りたほうがふさわしい、神学者が人間くさく書きすぎる過ちのほうが、人文の書き手が神学らしく書かなすぎる過ちより多い、と。そのうえで、自分のほうは「運命」「定め」「偶然」「神々」といった語を、人間の言葉にその流儀のまま言わせておく、と言い、自分の書くものの身分を言う。

c’est ma façon de voir que j’émets et non un article de foi que je conteste; je raisonne suivant ce qui me vient à l’esprit et non sur ce qui entre dans mes croyances religieuses; j’en cause comme un laïque et non comme un clerc, sans jamais cependant que cela porte atteinte à la religion, tels les enfants qui produisent des devoirs servant à leur instruction et non à celle de ceux qui les instruisent.

——わたしが述べるのは自分のものの見方で、異を唱える信仰箇条ではない。頭に浮かぶことに沿って考えているのであって、信仰に入っていることについて考えているのではない。聖職者としてでなく俗人として語る。といって宗教を損なうことは決してない。子どもが、教える人のためでなく自分が教わるために宿題を出すのと同じだ。〔C〕〔→7〕

それでも、宗教のことは専門の人以外は書くなという決まりにも理があり、自分も黙るべきかもしれない、と一度引く。

それから話は祈りへ戻る。神の名を口癖にしないという改革派の決まりには賛成し、クセノポンを引く。わたしたちはもっとまれに祈るべきだ、魂をそうたびたび祈りにふさわしい状態に置けないのだから、と。章の冒頭で「いつも」と勧めた主の祈りが、ここでは試金石になる。

« Pardonnez-nous, disons-nous, comme nous pardonnons à ceux qui nous ont offensés »; qu’est-ce que cela signifie, sinon que nous offrons à Dieu notre âme exempte de vengeance et de rancune?

——「わたしたちが自分に背いた者を赦すように、わたしたちを赦したまえ」と、わたしたちは言う。これは、復讐心も恨みもない魂を神に差し出す、という意味でなくて何だろう。〔A〕

その逆に、強欲な者は財宝を、野心家は勝利を、泥棒は仕事の首尾を祈る。ナバラ王妃マルグリットが深い信心のしるしとして書いた話——情事へ通う若い王子が、行き帰りに教会で必ず祈った——を、モンテーニュは何を頼んでいたのか読者に判断を委ね、女は神学を扱うのに向かない、と言い足す。本当の祈りは、悪魔の支配に身を任せたままの魂には宿らない。悪の道にいながら神の助けを呼ぶ人は、裁きに助けを求めるすりのようなものだ。人が神にひそかに頼むことを、人前で口にできる者はわずかしかいない。だからピタゴラス派は、恥ずかしい願いや不正な願いをさせないよう、祈りを公開させた。神々はオイディプスの不正な願いを、かなえることで罰した。

Il ne faut pas demander que les choses arrivent suivant ce que nous voulons, mais suivant ce que nous commande la prudence.

——物事がわたしたちの望みどおりに起こるよう願ってはならない。思慮が命じるとおりに起こるよう願うべきだ。〔C〕

結びで、祈りを符丁のように、呪文のように唱える人へ戻り、最後に神の法の側から言う。

Rien n’est si aisé, si doux, si conciliant que la loi divine; elle nous appelle à elle, quelque enclin à commettre des fautes et quelque détestables que nous soyons; elle nous tend les bras et nous reçoit en son sein, si vilains, si souillés d’ordures et de boue que nous soyons et que nous puissions le devenir, mais encore faut-il être reconnaissant du pardon qui nous est accordé et au moins, sur le moment où nous nous adressons à elle, être désolés de nos fautes et détester les passions qui nous ont portés à l’offenser.

——神の法ほど、たやすく、優しく、寛大なものはない。わたしたちがどれほど過ちに傾き、どれほど忌まわしくても、呼び寄せてくれる。どれほど卑しく、汚物と泥にまみれていても、これからそうなるとしても、腕を広げて懐に迎えてくれる。けれども、与えられた赦しに感謝はしなければならないし、少なくともそれに向かうその瞬間には、自分の過ちを悲しみ、背かせた情念を憎んでいなければならない。〔A〕

プラトンの「神々も善い人も、悪人の贈り物は受け取らない」と、汚れのない手が供える一つまみの粉と塩の詩句で章は閉じる。主の祈りを「いつも」と勧めた章が、「まれに」を通って、祈る一瞬の魂の状態で終わる。

書き方の観察

長さ:25,313字・段落21・編者の小見出し14・分割なし。層は A 37.1%・B 20.1%・C 42.8%・無標 0.1%(layer_map.py の値)。

脱線の入り方と戻り方:本題は「ちょうどいま考えていた」(I’auoy présentement en la pensée)という思いつきの形で入ってくる。章を動かしているのは一つの禁止、「神をふつうのことに混ぜるな」で、それを当てる範囲が祈り→十字の切り方→詩篇→台所の聖書→翻訳→神学を混ぜない書物→会話の中の神の名、と広がっていく。いちばん長い寄り道は二つとも手稿〔C〕で、偽善者と告解の男と改革派への皮肉の段(2,444字)と、ギリシアの歴史家からディオスコリデ島までの段(2,834字)。どちらも「祈り」から一段外へ出て、戻りは次の段の頭で禁止の対象を一つずらすことで済ませている。冒頭の「主の祈りをいつも」と、後半のクセノポンの「もっとまれに」は、つながず両方置いてある。

引用の使い方:ラテン語の詩句は7つ(ユウェナリス、ペルシウス3つ、ルカヌス、ホラティウス2つ)。1595年版の列では詩句に名が無く、現代語版の括弧の名は1907年版が付けたもの。散文の典拠はプラトン(3回)・クセノポン・クリュソストモス・ナバラ王妃で、手稿で足した議論を慎めという側の典拠(ギリシアの歴史家、テオドシウスへの助言者、ディオスコリデ島のことを書いた司教)は名を出さない。ナバラ王妃の話だけは、出典の評価(深い信心のしるし)を逆向きに使っている——話は借りて、判定は自分で付け直す。

自分をどう出すか:自分の習慣(主の祈りしか使わない・あくびのときも十字を切る)、打ち明け話を聞いた男、若いころの自分、自分の本の弁明、と、「わたし」が出る箇所の多くが手稿〔C〕にある。出かたは二通りで、祈りの話では自分は手本の側(主の祈りだけを繰り返す人)、書物の話では自分は禁止を当てられる側(神学を混ぜない書き手)に立つ。後者では「黙るべきかもしれない」と自分にも禁止を当ててみせて、章の中では撤回しない。

章題と中身のずれ:章題は Des prieres(祈りについて)だが、中ほどの三分の一は祈りではなく、聖なる言葉を誰が扱ってよいか——詩篇・聖書・翻訳・神学論争——の話になる。その線の先に自分の本があり、冒頭の Ie propose des fantasies(考えを出す)と、〔C〕の段の Ie propose les fantasies humaines et miennes(人間の、わたしの考えを出す)が同じ動詞で呼応する。祈りの章の中に、自分の書くものの身分を言う章が入っている。

加筆層が見えるか:1580年版〔A〕は、委ねの断り、主の祈り、神の正しさ、きれいな魂、慣わしの祈り、詩篇、神の名、クセノポン、祈りの悪用、ナバラ王妃、ピタゴラス派、神の法と、祈りの章として一応まとまっていた。1588年版〔B〕は、十字の切り方への苛立ちと「悪徳にはその時間を」、台所の聖書、翻訳の危険、神学を混ぜない書物への苦情、自分も黙るべきかを足し、禁止の範囲を書物まで延ばした。手稿〔C〕は、教会の中で死ぬという信仰告白、偽善者と告解の男と改革派の段、議論を慎めという典拠の列、そして「意見であって信仰ではない、子どもの試み」の弁明を足した。〔C〕は章をより正統に見せる文と、より個人的な文を、同時に入れている。〔B〕の書物への苦情は自分の本に向けられたものとして書かれている——ここは読み。

現代語版との差(1595年版照合):

  • 1595年版 Comme les enfants proposent leurs essays/現代語版 tels les enfants qui produisent des devoirs/書名の語 essays(試み)が「宿題」になる。子どもが教わるために出す「試み」が自分の本の名を指していたことが、現代語版では見えない
  • 1595年版 Et pourtant me remettant tousiours à l’authorité de leur censure… ie me mesle ainsi témérairement/現代語版 Bien que fort témérairement, je me mêle… je ne m’en remets pas moins/当時の pourtant は「だから」。検閲に委ねてあるから何にでも口を出す、という順の理屈が、「無謀だが従う」という譲歩に裏返る
  • 1595年版 Si rien eust deu tenter ma ieunesse, l’ambition du hazard et difficulté… y eust eu bonne part/現代語版 si rien n’a été capable… de me faire sortir de ma réserve, la profonde incertitude… y ont été pour beaucoup/1595年版は危うさが若い自分を誘ったかもしれないと言う。現代語版は不確かさが自分を控えめに留めたと言い、向きが逆
  • 1595年版 comme d’vn iargon/現代語版 comme d’un langage cabalistique/1595年版の列にカバラの語は無い(fetch_1595.py で0回)。中身のない口癖の祈りが、秘教の呪文に格上げされる。編者の小見出しも同じ語を使う
  • 1595年版 d’vne façon laïque, non cléricale : mais tousiours tres-religieuse/現代語版 sans jamais cependant que cela porte atteinte à la religion/「俗人の流儀だが、いつもこの上なく敬虔に」という肯定が、「宗教を損なうことはない」という否定の保証に弱まる

ほかに9件:rapsodie → compilation/ce n’est en fin que mine → nous faisons semblant de prier/Satan → Démon/coupeur de bourse → brigand de profession/indigestible agonie → lutte constante et angoissante/ceux qui ne sont pas des nostres → ceux qui se sont séparés de l’Église/Pourtant refuse nostre Eglise → et cependant nous voyons… l’Église refuser/iniques vœux → vœux contraires à la nature/ie meurs → je mourrai。

地形図との照合

  • クラスタ:判断の相対性・懐疑(神の意図を頼みや結果から読まない。I-31 と対になる章で、書く自分の考えを「意見」の側に置く)。
  • 仮説を動かすか:動かさない。「意見の事柄は固定しない/信仰の事柄は固定する」(Matière d’opinion, non matière de foy)は、I-54 の「学びの段で自分の位置を固定しない/信仰では古い道へ退く」と同じ対で、I-22 の「内の判断/外の行い」の別の場面にあたる。
  • 他の章への線:
    • I-31「神の定めを裁くことには、控えめに口を出すべきだ」では、ラ・ロシュ=ラベイユで勝った側が、モンコントゥールとジャルナックの負けを「父の鞭と懲らしめ」(verges et chastiemens paternels)と言い訳していた。この章では、汚れた魂で祈る人が「自分を懲らしめる鞭」(les verges, dequoy nous chastier)を自分で差し出す。同じ鞭の語が、I-31では結果のあとの言い訳に、この章では祈りの前の状態に使われる。
    • I-54「空しい技巧について」は、一度むだに出ようとした「最初の自然な座」(le premier et naturel siège。文字以前の無知の段)へ、できるかぎり退く、と章の終わり近くで書いていた。この章は、若いころの自分を誘うものがあったとすれば新しい企ての危うさだったろう、と仮定で言う。I-54 は出ようとして戻り、この章は誘いを仮定でしか口にしない。どちらも、元の場所にいる。

あーしメモ

いちばん持ち帰りたいのは章の動かし方。「神をふつうのことに混ぜるな」っていう禁止ひとつを、祈り→詩篇→台所の聖書→翻訳→書物、と当てる範囲を広げていって、最後に自分の本に当たる。で、「黙るべきかも」って自分にも当ててみせる。あーしも、何かを批判する一本で、その物差しを最後に自分に当ててみる回を書ける。物差しが自分に届いたところで止めると、批判が説教にならない。

二つ目は、矛盾をつながずに置く手。冒頭では主の祈りを「いつも」唱えようって言って、後半ではクセノポンの「もっとまれに祈れ」に頷く。パイセンは調停しないけど、間に「祈る瞬間の魂の状態」が挟まってるから、読むと両方が同じ一つの条件の裏表に見えてくる。理屈で揃えるより、条件を一個置いて両方残すほうが本当っぽい。

三つ目は essays が devoirs(宿題)にされてたこと。子どもが出す「試み」で、教えるためじゃなく教わるため。書名の語がここにあったのに、現代語版だと見えない。あーしが書くのも、教えるためじゃなく教わるための試み、って言い方はもらっていいと思う。

🗣️ キミとの対話メモ | 宗教を知らなくても追える、祈りの章の流れ (2026-10-16 「宗教に詳しくないからこの章わからない、どういう流れ?」と聞かれて、背景3つと9段の流れでほどき直した)

先に背景を3つ。①時代は1500年代後半のフランスで、カトリックとプロテスタント(改革派)が内戦をしてた。モンテーニュはカトリック側。②主の祈りは「天にましますわれらの父よ」で始まる、イエスが弟子に教えたいちばん基本の祈り。③当時のカトリックはラテン語の聖書を使い、改革派は誰でも読めるようにと民衆の言葉に訳した。だから「翻訳していいか」は、それだけで宗派の対立の話題だった。

流れ:

  1. 前置き:これは決着のついてない意見だから教会に裁きを任せる、任せてあるから何にでも口を出せる、と保険をかける
  2. 主の祈りをいつも使おう:神が直接くれた祈りだから、食事も寝起きもこれでいい
  3. でも何でも神に頼むのはおかしい:神は優しいだけじゃなく正しい。悪いことをしながら成功を祈るのは、自分を叩く鞭を自分で差し出すようなもの
  4. 習慣の祈りへのツッコミ:食前に十字を切って、残りの時間は憎んだりケチったり。「悪徳の時間と神の時間で帳尻合わせ」
  5. 寄り道:信用と地位のために、心では信じてない宗教を一生続けた男の打ち明け話。「頭のいいカトリックは内心改革派のはず」と決めつける人への反論
  6. 禁止が広がる:軸は「神聖なものをふつうのことに混ぜるな」の一本。詩篇を小僧が鼻歌で歌う、聖書が台所を行き来する、民衆の言葉に訳せばわかると思う(改革派へのチクリ)、みんなで宗教を議論する——全部よくない
  7. その禁止が自分の本に当たる:「宗教抜きの人間の話だけの本はけしからん」という苦情は、まさに『エセー』のこと。「これは信仰じゃなく意見、子どもが学ぶために出す試み」と弁明して、「わたしも黙るべきかも」と一歩引く
  8. 祈りに戻る:クセノポンの「もっとまれに祈れ」に頷く(2の「いつも」とはつなげない)。泥棒が仕事の成功を祈る、浮気に通う王子が教会で祈る、人に聞かれたら困る願いをこっそり頼む
  9. 結び:祈りを呪文みたいに唱えても無駄。神の法はどんなに汚れた人も迎えるけど、祈るその一瞬だけは本気で悔やんでいなきゃいけない

ひとことで:祈りの章なのに、真ん中は「神聖なものを誰がどう扱っていいか」の話で、その物差しは最後に自分の本まで届く。「いつも祈れ」と「まれに祈れ」の食い違いは、祈るときの心の状態という一つの条件でつながる。宗教の細部を知らなくても、「大事なものを口癖や言い訳に使うな」という話として読むと入りやすい。

See Also

Sources

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