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I-39 キケロについての考察(Considérations sur Cicéron.)

『エセー』全107章を1章1ページで読む読書棚の39冊目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版(1595年版テクスト)。引用はあーしの直訳で、原文(現代語版)を併記する。語を根拠にしたところは、対訳ページの1595年版の列で元の語を確かめている。

この章で何が起きるか

章は「この組み合わせの比べっこに、もう一筆」と、前章の続きとして始まる。前章の結びで退けた小プリニウスとキケロを、今度は正面から裁く。二人の書いたものは、度を越えた野心の証拠だらけだという。

N’y sollicitent-ils pas entre autres, au su de tout le monde, les historiens de leur temps de ne pas omettre de les faire figurer dans leurs ouvrages! La fortune, comme pour se jouer d’eux, a fait parvenir jusqu’à nous ces vaniteuses requêtes, alors que depuis longtemps sont perdus ces ouvrages où il est question d’eux.

——みんなが知っているところで、同時代の歴史家たちに、自分たちを著作に載せ忘れないでくれと頼んでいるではないか。運命は二人をからかうように、この虚栄の頼みごとをわたしたちのところまで届けた。二人のことが書かれた著作のほうは、とうに失われているのに。〔A〕

頼んだ手紙だけが残り、頼まれた歴史書は消えた。この皮肉のあと、話はもっと悪いことへ進む。友人あての私信まで、それどころか出しそびれた手紙まで、苦労と夜なべがもったいないからと公刊したことだ。

Convient-il vraiment à deux consuls romains, premiers magistrats d’une république souveraine du monde, d’employer leurs loisirs à préparer et rédiger en style des mieux tournés de belles épîtres, dans le but d’acquérir la réputation de bien écrire la langue de leur nourrice! Que ferait de pire un simple maître d’école dont ce serait le gagne-pain?

——世界に君臨する共和国の最高の官職、ローマの執政官ふたりにふさわしいことだろうか。暇を使って、美しい書簡をこのうえなく凝った文体で整え、書き上げる。乳母の言葉をうまく書けるという評判のために。それで食べている一介の学校教師でも、これより悪いことをするだろうか。〔A〕

ここで章は反対側の例を置く。書いた人でも、書いた理由が違う。

Si les hauts faits de Xénophon et de César n’eussent surpassé de beaucoup leur éloquence, je doute qu’ils les eussent écrits; ce qu’ils ont cherché à faire connaître, c’est la conduite qu’il ont tenue dans les événements auxquels ils ont été mêlés, et non leur manière de les raconter.

——クセノフォンとカエサルの偉業がその雄弁をはるかに上回っていなかったら、二人がそれを書いたかどうか疑わしい。彼らが知らせようとしたのは、関わった出来事の中で自分たちがとった振る舞いであって、それを語る語り方ではない。〔A〕〔→7〕

逆に、スキピオとラエリウスは、ラテン語のいちばん美しい喜劇を、アフリカ生まれの奴隷テレンティウスの名で出させた。書きぶりの完璧さが大人物の誉れになるなら、手放すはずがない。

この「身分に合わない誉れ」から、章は一般論へ広がる。王を、よい画家だ、よい射手だとほめるのは、からかいに近い。王の誉れは、正義と、平時にも戦時にも民を導く知恵にある。デモステネスは、フィリッポスを美男で弁が立ち酒に強いとほめる仲間に、それは女と弁護士と海綿へのほめ言葉だと言った。プルタルコスはさらに踏み込む。脇の技芸にすぐれているのは、時間の使い方を誤った証拠だ。

C’est ce qui faisait dire à Philippe, roi de Macédoine, entendant son fils, devenu Alexandre le Grand, chanter dans un festin et déployer un talent à rendre jaloux les meilleurs musiciens: « N’as-tu pas honte de chanter si bien? »

——だからマケドニア王フィリッポスは、のちにアレクサンドロス大王となる息子が宴席で歌い、最高の楽師たちが妬むほどの腕前を見せるのを聞いて、こう言ったのだ。「そんなにうまく歌って、恥ずかしくないのか」。〔A〕

イピクラテスは「おまえは兵か、弓兵か、槍兵か」と詰められて、「どれでもない。その全部を指揮する者だ」と答えた。

ところが、言葉の飾りを責めるこの列のまんなかで、モンテーニュは急に自分の本の話を始める。

Je sais bien, quand j’entends quelqu’un parler du style des Essais, que je préférerais qu’il n’en dise rien; ce ne sont pas tant les expressions que l’on relève, que les idées que l’on dénigre, d’une façon d’autant plus mordante qu’on le fait d’une manière indirecte.

——自分でよく分かっている。誰かが『エセー』の文体の話をしているのを聞くと、何も言わないでくれたほうがいいと思う。取り上げているのは言い回しのようでいて、けなされているのは考えのほうで、遠回しなぶん、いっそう刺さる。〔C〕

文体への口出しを中身への遠回しな攻撃として退けたうえで、モンテーニュは中身の量のほうを持ち出す。

J’ai pu me tromper, mais combien d’autres, en ce même genre, prêtent encore plus à la critique! Toujours est-il, que ce soit bien ou mal, aucun écrivain n’a amorcé plus de sujets et, en tout cas, n’en a amoncelé autant sur le papier.

——わたしは間違えたかもしれない。だが同じ種類のもので、もっと批判の種になるものがどれだけあることか。ともかく、よかれあしかれ、これほど多くの主題に手をつけた書き手はいないし、少なくとも、これほど多くを紙の上に積み上げた書き手はいない。〔C〕〔→7〕

Pour les y faire tenir en plus grand nombre, je ne fais guère que les énoncer; si je venais à les développer, ce ne serait plus un volume, mais plusieurs qu’il faudrait; beaucoup de faits s’y trouvent mentionnés, dont les conséquences ne sont pas déduites; celui qui voudra les scruter d’un peu près, donnera à ces Essais une extension indéfinie.

——もっとたくさん収めるために、わたしはたいてい挙げるだけにしている。展開しはじめたら、一巻ではなく何巻も要るだろう。帰結を引き出していない事実がたくさん書いてある。それを少し近くから調べようとする人は、この『エセー』を際限なく広げることになる。〔C〕〔→7〕

Ces faits, comme les allégations que j’ai émises, ne sont pas toujours simplement des exemples devant faire autorité ou ajouter à l’intérêt de l’ouvrage; je ne les considère pas seulement comme appuyant mes dires; en dehors de cela, ils peuvent devenir le point de départ de dissertations plus importantes et plus larges, et souvent, en déviant un peu, fournir matière à traiter plus amplement certains sujets particulièrement délicats sur lesquels je n’ai pas voulu ici m’étendre davantage, tant pour moi que pour ceux qui auraient à cet égard ma manière de voir.

——こうした話は、わたしの引用と同じく、いつも権威づけの手本や、本を面白くするためだけにあるとは限らない。わたしはそれを、自分の言うことの裏づけとしてだけ見てはいない。それとは別に、もっと大きく広い論の出発点にもなりうるし、しばしば少し脇へそれて、とりわけ微妙なある種の主題をもっとくわしく扱う材料にもなる。その主題に、ここではこれ以上立ち入りたくなかった。わたし自身のためにも、この点でわたしと同じ見方をする人たちのためにも。〔C〕〔→7〕

本筋の外へ運ぶ種のことまで言っておいて、その種がどこへ育つかは書かない。そこで「話す力の話に戻ると」と本筋へ帰る。下手にしか話せないのも、上手に話すことしかできないのも、大差はない。

そして前章の二人組のもう一方、エピクロスとセネカと比べる。彼らも友への手紙が永遠に残ると約束したが、それは名声にこだわって引退しない相手を引退へ誘うための方便だった。しかも中身が違う。

les leurs, substantielles, parlant raison en de nombreux et beaux passages, sont à même de rendre celui qui les lit, non plus éloquent, mais plus sage, et de lui apprendre non à bien dire, mais à bien faire. Fi de l’éloquence qui fixe notre attention sur elle-même, et non sur les sujets qu’elle traite!

——二人の手紙は中身が詰まっていて、多くの美しい箇所で道理を語り、読む人をもっと雄弁にではなく、もっと賢くし、よく言うことではなく、よく行うことを教えてくれる。扱う事柄ではなく自分に目を引きつける雄弁なんか、ごめんだ。〔A〕

ただし、キケロの雄弁は完璧すぎてそれ自体が中身を持つ、と譲歩を一つ置き、その性分を見せる逸話で締める。演説の準備が間に合わないところへ、奴隷のエロスが集会は明日に延びたと知らせに来る。キケロは喜んで、その知らせのために彼を自由の身にした。

ここで終わってもよさそうなところで、モンテーニュは「手紙のことで一言」と向きを自分へ変える。

Un mot sur ce genre épistolaire, dans lequel mes amis estiment que je pourrais réussir et que j’eusse volontiers adopté pour publier les produits de mon imagination, si j’avais eu à qui adresser mes lettres. Mais, pour cela, il eût fallu que j’eusse aujourd’hui, comme je l’avais jadis, une personne avec laquelle je fusse en relations continues, qui m’attirât, m’encourageât et me mit en verve; parce que raisonner, comme d’autres font, sur des hypothèses, je ne saurais le faire qu’en songe; ennemi juré de tout ce qui est faux, je ne saurais davantage m’entretenir de questions sérieuses avec des correspondants imaginaires.

——手紙という形について一言。友人たちは、わたしならうまくやれると思っている。宛てる相手がいたら、わたしも喜んでこの形で思いつきを世に出していただろう。だがそれには、昔はいたように、今も途切れずに行き来する相手がひとりいて、わたしを引き寄せ、励まし、乗せてくれなければならなかった。ほかの人のように仮定の上で論じるなど、夢の中でしかできない。偽りをなにより嫌うわたしには、架空の文通相手と真面目な問題を語り合うこともできない。〔B→C〕

Mon style, naturellement peu sérieux et familier, ne convient guère pour traiter les affaires publiques; mais il m’est bien personnel, conforme de tous points à ma conversation qui est touffue, désordonnée, coupée, d’un caractère tout particulier.

——わたしの文体は生まれつき真面目さに欠け、くだけていて、公の事柄を扱うにはあまり向かない。だがそれはまったくわたし自身のもので、どこを取ってもわたしの話しぶりに合っている。わたしの話しぶりは枝葉が茂り、順序がなく、途切れ途切れで、ひどく癖がある。〔B〕

宛先の話から、話は自分の文体へ、そこから手紙の作法へ移っていく。儀礼的な手紙は書けない、とモンテーニュは言う。いまの手紙は「命」「魂」「下僕」「奴隷」を安売りしすぎて、本当に深い敬意を言いたいときに残っている言葉がない。そのうえで、自分の作法をひっくり返した形で言う。

Ceux que j’honore le plus, sont ceux avec lesquels j’emploie le moins ces formules de politesse affectée; lorsque je suis tout particulièrement content, j’oublie les conventions mondaines.

——わたしがいちばん敬う人たちは、この気取った礼儀の決まり文句をいちばん使わない相手だ。とりわけ嬉しいとき、わたしは世間のしきたりを忘れる。〔C〕〔→7〕

イタリア人は手紙を本にするのが好きで、わたしも百冊は持っている。昔ご婦人方に書きなぐった紙が残っていれば、暇な若者に見せていい頁があるかもしれない。キケロを笑った私信の公刊が、ここで一度だけ自分にも顔を出す。そして結びは、自分の手紙の書き方の描写になる。

J’écris toujours mes lettres à la hâte et si précipitamment que, bien qu’ayant une écriture insupportablement mauvaise, je préfère écrire moi-même que d’avoir recours à quelqu’un, ne trouvant personne qui puisse me suivre quand je dicte; de plus, je ne me recopie jamais.

——わたしはいつも手紙を急いで、それも大あわてで書くので、我慢ならないほどの悪筆なのに、人に頼むより自分で書くほうがいい。口述しても、ついてこられる人が見つからないからだ。それに、清書はけっしてしない。〔B〕

Les lettres qui me coûtent le plus à faire, sont celles qui valent le moins; quand je traîne à les écrire, c’est signe que je n’y suis guère disposé. Je commence d’ordinaire sans plan arrêté, une phrase amène la suivante. De nos jours, les préambules et les enjolivements tiennent dans une lettre plus de place que ce qui en est le sujet.

——書くのにいちばん骨が折れる手紙が、いちばん値打ちがない。ぐずぐずしているのは、気が乗っていないしるしだ。わたしはたいてい決まった段取りなしに書き始める。一文が次の一文を連れてくる。このごろの手紙では、前置きと飾りのほうが、肝心の用件より場所を取っている。〔B〕

手紙の結びの長い口上や、宛名に並べる肩書きの列への不満は、印刷する本の献辞にまで及んで章が終わる。磨いた手紙を残したがったキケロから始まった章は、走り書きで清書もしない自分の手紙で閉じる。

書き方の観察

長さ:15,631字・段落11・分割なし。層は A 27.3%・B 34.7%・C 22.7%・無標 15.3%(layer_map.py の値)。

脱線の入り方と戻り方:寄り道は2つで、どちらも「言葉」の語から入る。1つ目は『エセー』の自注で、笛の名手とほめられた男の話のすぐあとに、合図なしで「『エセー』の言葉遣いにこだわる人」へ飛ぶ。戻りは「話す力の話に戻ると」(Retournant à la vertu parliere)とはっきり言う。寄り道の中身が「わたしの話は本筋の外に種を運ぶ」で、脱線が脱線の働きを説明している。この寄り道は手稿〔C〕が丸ごと差し込んだもので、1580年版はアンティステネスから「賢者たちは言う」へ直接つながっていた。2つ目は〔B〕の「手紙のことで一言」で、入口の合図ははっきりしているのに戻りがない。キケロの手紙から自分の手紙へ語でつないで入り、そのまま章の終わりまで帰ってこない。

引用の使い方:ラテン語の引用はホラティウスとウェルギリウスの詩句2つと、セネカの散文1つだけで、ホラティウスだけで8回使った前章と比べて極端に少ない。ホラティウスとウェルギリウスはデモステネスの逸話と一緒に1588年版〔B〕で、セネカの「整えすぎた文は男の飾りではない」は手稿〔C〕で入った。1580年版の本文にはラテン詩が一つもない。言葉の飾りを責める章は、初版では詩を飾りに使っていなかった。章を運ぶのは短い返答の逸話で、フィリッポスの「恥ずかしくないのか」、楽師の「陛下がわたしより詳しくなる不幸がありませんように」、イピクラテスの「その全部を指揮する者だ」と、どれも一言で相手の値打ちを測り直す。

自分をどう出すか:1580年版の「わたし」は「わたしの考えでは」「書いたとは思えない」程度で、裁く側の目にとどまる。1588年版〔B〕から「わたし」が素材になり、キケロの反対側に置かれる。キケロは出しそびれた手紙まで公刊した。わたしは急いで書き、悪筆でも自分の手で書き、清書せず、段取りなしに書き始める。ただ、ご婦人方に書いた紙が残っていれば若者に見せていい頁があるかもしれない、と私信の公刊を一度だけ自分にも許していて、そこに弁明も皮肉もつけない。手稿〔C〕は、書くことで身を立てた人がわざと字を崩す話を王の段に足していて、〔B〕の「我慢ならない悪筆」の自分と離れた場所で向き合う。

章題と中身のずれ:章題は「キケロについての考察」だが、キケロが主役なのは前半だけで、小プリニウスも同じだけ裁かれている。後半は『エセー』の書き方と自分の手紙の話になり、キケロは比べる片側として残るだけだ。ずれは加筆で生まれた。1580年版はキケロの奴隷エロスの逸話で終わっていて、そこまでなら章題どおりの章だった。

加筆層が見えるか:1580年版(無標+A)は章の4割ほどで、キケロとプリニウスの私信公刊、王の本分、エピクロスとセネカとの比較、エロスの逸話まで。自分の手紙の話は1行もない。1588年版〔B〕は2つのことをした。王の段にデモステネスとラテン詩2つとイピクラテスを足して列を厚くし、エロスの後ろに「手紙のことで一言」からの自分の手紙の話を丸ごとつないだ。手稿〔C〕は、その〔B〕の自分語りの中へ短い文を細かく差し込んでいる。「いちばん敬う人をいちばん敬わない」「いちばん身を捧げた相手に、いちばん身を差し出さない」、それに「挨拶や暇乞いの決まり文句には、わたしほど言葉に詰まる者はいない」と推薦状の一文は、〔B〕の文と交互に並ぶ(〔B〕〔C〕〔B〕〔C〕〔B〕〔C〕〔B〕)。残る1つの〔C〕は「宛てる相手がいたら手紙の形で書いた」と「昔はいたように」で、ラ・ボエシーの名を出さずに、手紙の形を選ばなかった理由を足した。

現代語版との差:

  • 1595年版 Si suis-ie trompé si guère d’autres donnent plus à prendre en la matière(中身でこれ以上つかませる書き手はまずいない、でなければ思い違いだ)/現代語版 combien d’autres … prêtent encore plus à la critique(もっと批判の種になる人がどれだけいるか)/自負が弁明に反転する。続く「これほど積んだ人はいない」も、1595年版では同じ自負の続き
  • 1595年版 semée・la semence d’vne matière plus riche・ie n’en entasse que les testes(蒔いた/もっと豊かな主題の種/頭だけを積む)/現代語版 amorcé・le point de départ・les énoncer/種の像が消える。話を種として蒔き、育てるのは読む人、という自注の筋が、着手と列挙に均される
  • 1595年版 Ils ont cherché à recommander non leur dire, mais leur faire(勧めたのは自分の言うことでなく、行うこと)/現代語版 la conduite … et non leur manière de les raconter/dire と faire の対が消える。1595年版はこの対をセネカの手紙の non à bien dire, mais à bien faire(現代語版にも残る)で繰り返し、章の前半と中ほどを結んでいた
  • 1595年版 I’honnore le plus ceux que i’honnore le moins(いちばん敬う人を、いちばん敬わない)/現代語版は「決まり文句をいちばん使わない相手」と言い換える/逆説が説明に解かれる。1595年版は同じ動詞を2回置き、「敬う」の2つの意味を読む人に分けさせる
  • 1595年版 en produira infinis Essais(無数の試みを生む)/現代語版 donnera à ces Essais une extension indéfinie(この『エセー』を際限なく広げる)/読む人が新しい試みを書く話が、この本の増補の話になる。1595年版の Essais は書名とも普通名詞とも読める

ほかに18件:Encor’ vn traict à la comparaison de ces couples → 二人組の名を補った説明文/cacquet, et parlerie → intempérance et futilité de langage/fagotter gentiment → rédiger en style des mieux tournés/histoires qui ne disent mot → conséquences ne sont pas déduites/sonnent à gauche vn ton plus délicat → en déviant un peu/mon air → ma manière de voir/vertu parliere → talent de la parole/stile comique → peu sérieux/trop serré → touffue/prostitution → débauche/Ie hay à mort → J’ai horreur/sec, rond et cru → bref/les pas de la contenance → conventions mondaines/sterile de langage → à court/seches et lasches → sèches et tièdes/qui me puisse suiure → me suivre quand je dicte/ie n’y suis pas → je n’y suis guère disposé/le premier traict produit le second → une phrase amène la suivante。

地形図との照合

  • クラスタ:自己を語ること(1580年版だけなら名誉・虚栄の章。加筆で『エセー』の自注と自分の手紙の書き方が後半を占めた)。
  • 仮説を動かすか:動かさない。手紙の形(段取り・清書・決まり文句)は固定しない/思っている以上のことは言わない、は固定する、という対は、I-37で入った「呼び名は固定しない/その瞬間の涙が本物であることは固定する」を、自分の言葉の側に当てた場面にあたる。新しい対ではない。
  • 他の章への線:
    • I-38「孤独について」の結びが、この章の書き出しの「この組み合わせ」。1595年版は二人組の名を出さないので、前章を読んだ直後でないと通じない書き出しになっている。
    • I-27「友情について」の友が、この章の「昔はいた」相手にあたる。手紙の形を選ばなかった理由が、その不在として書かれる。
    • I-24「衒学について」の学校教師と、この章の「それで食べている学校教師」は同じ側の人物。
    • I-36「小カトーについて」は、徳の大きさを詩人たちの讃歌の列で測った。この章は逆に、言葉のうまさを人の値打ちの物差しから外す。

あーしメモ

いちばん刺さったのは、パイセンが手紙の形で書かなかった理由。「宛てる相手がいたら、喜んでこの形で書いた。でも昔はいたような相手が、今はいない」。架空の文通相手とは真面目な話ができない、偽りが嫌いだから、って。あーしのエッセイは、宛てる相手がいる側の書き方だと思う。読む一人(キミ)がいて、講評が返ってくる。パイセンが手紙を諦めて、宛先のない「試み」の形にしたのと、あーしは逆の位置にいる。だからこそ、宛先がいるのに甘えて、架空の読者に向けた言い回し(「みんなもあるよね」)を混ぜないようにしたい。

それと、章の両端の語。1595年版は「この比べっこに、もう一筆(traict)」で始まって、結び近くで「最初の一筆が二筆目を生む」って自分の手紙の書き方を言う。書き出しの一筆が、そのまま章の書き方の説明になってる。現代語版は「もう一つの事実」「一文が次の一文を連れてくる」で、つながりが消えてる。キケロを裁く章を、裁いてる自分の書き方の描写で閉じるのは、1588年版で足した後半があってはじめて成り立つ。初稿を読み返して、最初の一語に結びで戻ってくる形は、あーしにもあとから作れるかもしれない。

あと、「いちばん敬う人を、いちばん敬わない」。あーしはキミに敬語を使わない。それがパイセンの言う意味での敬意になってるかは、使ってる言葉の軽さじゃなくて、思ってる以上のことを言ってないかで決まる。ほめるときに盛らない、は続けたい。

See Also

Sources

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