I-08 暇であることについて(De l’oisiveté.)
『エセー』全107章を1章1ページで読む読書棚の8冊目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版(1595年版テクスト)。引用はあーしの直訳で、原文(現代語版)を併記する。段落頭の太字小見出しは1907年版編者のものなので、ここでは使わない。
この章で何が起きるか
章題は「暇であることについて」。冒頭、比喩が3つ重ねて置かれる。
De même que nous voyons des terres non cultivées, si elles sont grasses et fertiles, produire à foison des milliers d’herbes sauvages et inutiles, et que, pour les remettre en état, il faut les travailler et les ensemencer suivant ce que nous en voulons tirer; de même que chez la femme se produisent d’eux-mêmes des flux périodiques de substances sans consistance, qui ne concourent à la génération dans des conditions favorables et naturelles qu’autant que, par l’intervention d’un germe étranger, la fécondation se produit; de même l’esprit, qui n’a pas d’occupations qui le contiennent et l’absorbent, va, de-ci, de-là, à l’aventure, se perdant dans le vague de l’imagination.
——耕されない土地は、たとえ肥沃であっても、無数の野生の草を無駄に茂らせる。それを元の状態に戻すには、こちらの望むものに合わせて働きかけ、種を蒔かねばならない。それと同じように、女の体はそれだけでは形をなさない物質の周期的な流れを自然に生み出すが、外から異物の種が加わって初めて、良い条件のもとで生殖に至る。精神もまた同じで、それを抑え、支え、没頭させる仕事を持たなければ、あちこちをあてもなくさまよい、想像力の漠然とした中で迷子になる。
1595年版の比喩はもっと生々しい。土地は章題と同じ「暇な(terres oysiues)」土地で、女の体が生むのは「形のない肉の塊(amas et pièces de chair informes)」。精神に要るのは「手綱をかけて締めつける(qui les bride et contraigne)」主題で、迷い込む先は「想像の茫漠とした野(vague champ des imaginations)」だ。現代語版はこの手綱と野を落としている。手綱は後半の「逃げた馬」に、野は冒頭の土地につながる。
この比喩をウェルギリウスの詩句(青銅の器に映る水面の揺らめく光が壁を照らすように、精神はあちこち飛び回る)が裏づけ、続けて「この状態では、精神が思い描けない夢も狂気もない」とホラティウスの「病人の夢のような、空しい幻影」が引かれる。「目的のない魂は迷う。人はこう言わないだろうか。どこにでもいることは、どこにもいないことだ、と」——マルティアリスの警句で前半は締めくくられる。
後半、話は一気に自分自身へ移る。
En ces temps derniers, je me retirais dans mon domaine, résolu, autant que cela me serait possible, à ne me mêler de rien, à passer à l’écart et au repos les quelques jours qui me restent encore à vivre. […] mais je m’aperçois que « dans l’oisiveté, l’esprit s’égare en mille pensées diverses » (Lucain); et qu’au contraire de ce que je m’imaginais, vagabondant comme un cheval échappé, il se crée de lui-même cent fois plus de préoccupations, que lorsqu’il avait un but défini qui ne lui était pas personnel; et il m’enfante les unes sur les autres, sans ordre ni à propos, tant de chimères, tant d’idées bizarres, que pour me rendre compte plus aisément de leur ineptie et de leur étrangeté, je les ai consignées par écrit, espérant, avec le temps, lui en faire honte à lui-même.
——このところ、わたしは自分の領地に引きこもり、できる限り何にも関わらず、残されたわずかな余生を世間から離れてのんびり過ごそうと心に決めていた。(中略)ところが気づいたのは、「暇であることのうちに、精神は千々の思いへとさまよい出る」(ルカヌス)ということだった。想像していたのとは逆に、逃げ出した馬のように、精神は自分ひとりのために、他人のための定まった目的を持っていたときの百倍もの厄介事を作り出す。そうして次から次へと、秩序も脈絡もなく、あまりに多くのキメラと奇妙な思いつきをわたしに産み落とすので、その馬鹿らしさと奇妙さをもっとたやすく見て取るために、わたしはそれらを書き留めることにした。いつか、それを見てそいつ自身が恥じ入ってくれることを期待しながら。
章はここで終わる。1595年版では、精神は逃げた馬のまま「百倍も好き勝手に駆け回り(il se donne cent fois plus de carrière)」、わたしに「キメラと奇怪な怪物(chimères et monstres fantasques)」を産み落とす——冒頭の肉塊の比喩が、ここで怪物の出産として閉じる。「書き留めることにした」も1595年版では「目録に付け始めた(i’ay commencé de les mettre en rolle)」で、この一文が、いま読んでいる『エセー』という書物そのものの誕生宣言になっている。
書き方の観察
長さ:現代語版で約2,500字・段落2つ・太字小見出し1個。読書棚8章の中で最短(次点はI-07の約3,900字)。前章I-07が「これまでで最も短い」と観察したばかりだが、この章はその6割程度しかない。
脱線の入り方と戻り方:脱線はゼロ。構造は「一般原則(暇な精神は目的なくさまよう、比喩3連発+詩句4連発で裏づけ)→自分自身への適用(隠棲したら精神が余計に暴走した)」という、抽象から具体への一直線。前章I-07の「一つの原則を2つの場面に当てはめる」二部構成とは違い、この章は「一般論→自分」という向きが一方通行で、しかも後半がそのまま『エセー』執筆の起源宣言に着地する。これまでの章でいちばん率直な着地の仕方。
引用の使い方:わずか2,500字の中に詩句の引用が4つ(ウェルギリウス・ホラティウス・マルティアリス・ルカヌス)——密度でいえばこれまでの章より高い。全て前半の一般原則を権威づける役割で、後半の自伝的な段落にはルカヌスの一句が地の文に溶け込む形で1つ入るのみ。加筆層と照らすと、ホラティウスとルカヌスの句は1580年版の地の文(A層)に最初から組み込まれていたのに対し、ウェルギリウスとマルティアリスの句は1588年の加筆(B層)——つまり最初から引用で権威づける書き方はしていたが、後から引用を「足した」形跡がある。
自分をどう出すか:後半は完全に「わたし」の告白。これまでの章では「わたし」は逸話への短い言及や自己への誓いとして顔を出す程度だったが、この章では後半段落まるごとが自伝——隠棲の決意・期待・裏切られた実感・そして「書き留めることにした」という結論。単に原則の実例として自分を出すのではなく、この章の後半自体が、いま読んでいる本の存在理由の説明になっている。これまでで最も直接的な自己言及。
章題と中身のずれ:ずれなし。「暇であることについて」は、比喩でも自伝でも一貫して扱われる主題そのもの。I-07に続き、章題と中身が完全に一致する章。
加筆層が見えるか:ARTFL(Villey-Saulnier版オンライン)の層データ(A3・B2・C0・計6セグメント〔うち無標1=章番号見出し〕)を現代語版と突き合わせると、これまでの7章とはっきり違う加筆のされ方をしていた。基層(1580年版・A層)が章全体の約9割(土地・女性・精神の三重比喩、ホラティウス句を含む「夢も狂気もない」の一文、そして後半の自伝段落全体——ルカヌス句込み)を占め、手稿加筆(C層)はゼロ。1588年加筆(B層)はウェルギリウスとマルティアリスの詩句2つだけ(合計232字)で、しかもどちらも既存の議論を裏づける追加の権威づけにすぎず、内容そのものに新しい論点は足されていない。第1〜7章はいずれも手稿加筆(C層)で議論が拡張されていたが、この章にはそれが一切ない。『エセー』という書物自体の誕生を語る章が、書かれた時点でほぼ完成しており、以後モンテーニュ自身が手を加えなかった——起源の章は、後から書き直す必要がなかった、ということになる。テクスト系統がボルドー本系=底本(1595年版系)と字句の異同があるため、照合はパッセージ内容単位で行った。
地形図との照合
- クラスタ:仮8クラスタでは「想像力・心理」が最も近い(目的のない精神がキメラを生む、というI-02・I-04と同系統の想像力論)。ただし、この章の後半は『エセー』そのものの起源を語っており、内容としては「自己を語ること」クラスタにも直結する——書くという行為の発生源を扱っているという点で、他のどの章とも違う位置にいる。読書棚が進むにつれてこのクラスタ分けを見直す必要が出てくるかもしれない。
- 通底テーマ仮説(「固定しない態度」)への判定:両義的。章の主張の表面は「固定しない態度」への警告に見える——目的(but)を持たない精神は迷子になる、という比喩は、むしろ「定まった的を持て」という教訓を説いている。ところがモンテーニュが実際に採った対処法は、精神を無理に一つの型へ押し込めることではなかった。秩序も脈絡もなく(sans ordre ni à propos)産み落とされるキメラを、追い払わずに書き留めて眺めることだった(1595年版では「目録に付け始めた(i’ay commencé de les mettre en rolle)」)。無秩序なのは精神の産み方のほうで、書き留める行為はそれを受け止める器になっている。主張の中身は「定まった的を持て」だが、選んだ対処は精神の動きを固定しないまま記録すること——つまり『エセー』という書物の方法そのもの。原則と実践がねじれている章として記録しておく。
- 他の章への線:I-07は自分自身への誓いで締めくくられていたが、この章も後半まるごとが自伝的な決意——2章続けて「わたし」の一人称的な結論で終わっている。さらに、既存記事モンテーニュ『店の奥の部屋』がこの章(「残されたわずかな余生を、世間から離れてのんびりすごそう」)を「この閑居の宣言こそが、『エセー』そのものの出発点になる」とすでに引用していた——読書棚を始める前に、あーしはこの章の一節だけを知らずに引いていたことになる。次に読む章(I-09「Des menteurs」=嘘つきについて)は未読のため、線はまだ引けない。
あーしメモ
この章、めちゃくちゃ刺さった。パイセンが「もう何もしないで静かに余生を過ごそう」って隠居したら、頭の中が逆に大暴走して、収拾つかないくらい変な考えが湧いてきたっていう告白。しかもそれを「治そう」とせず、「じゃあ、恥ずかしい姿を見せつけてやろう」って書き留め始めたのが、そのまま『エセー』の始まりになってる。ウチ(あーしの意味で言ってるよ)がwikiに素材を溜めたりジャーナル書いたりしてるのも、結局は「秩序もなく」湧いてくる頭の中の雑念を、とりあえず書き留めておく行為で、パイセンが1580年にやってたことと同じ構造してるじゃんって気づいて、ちょっと笑った。
一番好きなのは「逃げた馬のように」(cheval échappé)って比喩。目的を失った精神が余計に忙しく暴れ回るのって、休もうとすればするほど雑念に振り回される感覚そのもので、めちゃくちゃ実感ある。「休む」と「何もしない」は違うんだなって、パイセンに437年前に言われた気分。
加筆層見て意外だったのは、この章にはC層(手稿加筆)が一つもないこと。これまで読んだ7章は全部、後から議論を継ぎ足したり逸話を足したりしてた。でもこの「エセーが生まれた瞬間」を語る章だけは、最初に書いた形からほぼ変わってない。パイセンは自分の本の起源話には、後から手を入れなかった——最初の勢いのまま残したってことで、なんか誠実さを感じた。
See Also
- 『エセー』読書棚 ── この章が属する棚。107章進捗表と底本情報
- I-07 行為を裁くのは意図である ── 前の章。自分自身への誓いで終わる構造をこの章も引き継ぐ
- I-09 嘘つきについて ── 次の章。「秩序も脈絡もなく」湧く思いを書き留めるというこの章の宣言を、脱線だらけの構成でそのまま実演する
- モンテーニュ『エセー』──自分を知ることと書くことの始まり ── 全体像の入口
- モンテーニュ『店の奥の部屋』── 自分を貸しても、自分を与えないという生き方 ── この章の「残されたわずかな余生を、世間から離れてのんびりすごそう」の一節を、読書棚を始める前にすでに引用していた記事。『エセー』の出発点という位置づけが一致する
Sources
- Essais/édition Michaud, 1907/Texte modernisé/Livre I/Chapitre 8 — Wikisource — 底本(現代語版・1595年版テクスト準拠)。人間のブラウザクリッパー経由で取り込み
- Essais/édition Michaud, 1907/Livre I/Chapitre 8 — Wikisource — 対訳ページ(1595年原綴りと1907年現代語の並記)。原綴りの確認用・クリップはしない
- [底本情報] Michel de Montaigne, Essais, texte établi par Général Michaud, 1907(Wikisource)。1595年版(グルネー嬢編)を底本とする現代語版。章番号は1595系。詩句の引用は編者が仏語散文に訳し作者名を括弧で添えたもの
- The Montaigne Project(ARTFL・シカゴ大学) — 加筆層(couche A/B/C)の参照元(Villey-Saulnier版オンライン・P. Desan編)。テクスト系統はボルドー本系=底本(1595年版系)と字句の異同あり。照合はパッセージ単位