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I-05 包囲された城塞の司令官は、講和交渉のために城を出るべきか(Si le chef d'une place assiégée doit sortir pour parlementer)

『エセー』全107章を1章1ページで読む読書棚の5冊目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版(1595年版テクスト)。引用はあーしの直訳で、原文(現代語版)を併記する。段落頭の太字小見出しは1907年版編者のものなので、ここでは使わない。

この章で何が起きるか

章題は「包囲された城塞の司令官は、講和交渉のために城を出るべきか」。冒頭は具体的な逸話から入る。

Lucius Marcius qui commandait les Romains, lors de leur guerre contre Persée, roi de Macédoine, voulant gagner le temps qui lui était encore nécessaire pour que son armée fût complètement sur pied, fit au roi des propositions de paix qui endormirent sa prudence et l’amenèrent à accorder une trêve de quelques jours, dont son ennemi profita pour compléter à loisir ses armements; ce qui fut cause de la défaite de ce prince et lui coûta le trône et la vie.

——マケドニア王ペルセウスとの戦でローマ軍を率いていたルキウス・マルキウスは、自軍の準備が整うまでの時間を稼ぎたくて、王を油断させる和平案を持ちかけ、数日間の休戦を勝ち取った。その隙に軍備を整えたのは実はマルキウスの側で、この一件が王の敗北を招き、王座と命の両方を失わせた。

これに対し古い風習を尊ぶ元老院の老議員たちが、これは「勇気ではなく狡知で戦う」ローマ人らしからぬやり方だと非難する。彼らの言い分によれば、かつては夜襲も偽りの敗走もせず、宣戦布告のうえで、時には戦う場所と時間まで決めてから戦った。ピュロスを裏切ろうとした侍医やファリスキ人を裏切ろうとした教師を、ローマはむしろ相手側へ突き返した。これがギリシャ人やカルタゴ人の狡知とは違う、ローマ人の誠実さだった、と。議員たちの言い分のあとに、モンテーニュは「この言葉を見れば、このお人好したち(ces bonnes gents)は、まだあの見事な格言を知らなかったのだ」と論評し、ウェルギリウスの句「敵に対しては、狡知だろうと武勇だろうと何の問題があろうか」を添える。

続いてポリュビオスの伝えるアカイア人(敵の戦意そのものを挫かない勝利は勝利と認めない)、宣戦布告に武器や兵数の詳細まで添えるテルナテ王国の「野蛮」な慣習、そして戦の1か月前から鐘(マルティネッラ)を鳴らし続けて敵に予告した古いフィレンツェの逸話が並ぶ——いずれも「事前に手の内を明かす」誠実さの実例。

ここで章は現在(モンテーニュの時代)へ転じる。「われらはそこまで迷信深くない(moins superstitieux)ので」と、昔の誠実さを半ば皮肉に呼びつつ、成功をもたらすものは何であれ正当とする現代の戦争観を述べ、講和交渉の最中こそ奇襲が起きやすいという理由から「包囲された城塞の司令官は決して交渉のために城を出てはならない」という当代の鉄則を示す。この原則を破ったモンモール卿とラシニー卿は非難されたが、原則を破っても身の安全を確保する策を講じていれば許されるとして、レッジョを守っていたギー・ド・ランゴン伯の例——交渉中に小競り合いが起き、敵将側が不利になったばかりか、伯自身が敵将を城内へ保護する側に回った——が語られる。

対照的な例が続く。アンティゴノスに包囲されたエウメネスは、格上を理由に自ら出向くよう迫られたが、「剣を握っている限り誰の下にも立たない」と拒み、アンティゴノスの甥を人質に取ってから出向いた。逆にコメルシー城で包囲されたアンリ・ド・ヴォーは、敵将バルテルミー・ド・ボンヌの求めに応じて城を出て、自分の城の崩壊が避けられないことを目の当たりにし、敵の誠意に感謝して降伏した——結果、城は本当に崩れ落ちた。

章はモンテーニュ自身の立場で締めくくられる。「わたしは人の信義をたやすく信じる。ただ、それが率直さや相手への信頼からではなく、絶望や気後れ(désespoir et faute de cœur)からしたことだと判断されそうなときは、なかなか信じない」。

書き方の観察

長さ:本文9段落・現代語版で約6,950字・太字小見出し4個。第4章(約5,900字)よりやや長く、第1章(約10,300字)・第3章(約18,700字)よりは短い、読書棚5章の中で2番目に短い章。

脱線の入り方と戻り方:構造は「具体的な逸話(ルキウス・マルキウス)→それに対する旧世代の非難演説(原理の提示)→比較のための異文化・異時代の実例(アカイア人・テルナテ・フィレンツェ)→現代の原則の宣言→原則を破った実例(ランゴン伯)→人質を取ってから出た実例(エウメネス)→出て無事だった実例(アンリ・ド・ヴォー)→自分の立場の告白」という、問いを立てて答えを両側から検証する討論の構え。第1〜第4章のどのパターンとも違う第5のパターン——脱線というより「賛否の実例を天秤にかけながら進む」構成で、最後に自分の立場という個人的な結論に着地する点は、額縁のない第4章よりも第2章の「額縁に戻って閉じる」に近い。ただし戻る先は冒頭の逸話ではなく、章題そのものへの自分の答え。

引用の使い方:ラテン語の格言・詩句が3つ(ウェルギリウス・フロルス・エンニウス)、いずれも元老院議員の非難演説とアカイア人の逸話の中に埋め込まれ、「昔の誠実な戦争観」を権威づける役割を担う。第3・第4章と同じく逸話や主張の締めに置かれるが、この章では格言が地の文の中に溶け込むように配置され、独立した引用ブロックというより議論の一部として機能している。

自分をどう出すか:この章の「わたし」は、末尾の一文「Ie me fie aysement à la foy d’autruy(わたしは人の信義をたやすく信じる)」にしか現れない。だが第4章の「わたし」がほぼ消えていたのとは対照的に、この一文は章全体の議論——信じるべきか、原則を守るべきか——に対するモンテーニュ自身の裁定として機能しており、短いながらも重みのある自己開示になっている。しかも層データによれば、この一文は1588年の加筆(B層)——最初の版では章は他者の逸話の羅列で終わっており、自分の立場を明かす一文は後から足された。

章題と中身のずれ:ずれは小さい。章題「包囲された城塞の司令官は、講和交渉のために城を出るべきか」に対し、本文はローマの古い戦争観から現代の原則、実例の検証まで大きく迂回するが、最終的に「城を出るべきではない、ただし例外もある」という答えに到達しており、迂回そのものが章題への根拠固めになっている。第4章ほど逸話の一対一対応はないが、道筋は章題からぶれていない。

加筆層が見えるか:ARTFL(Villey-Saulnier版オンライン)の層データ(A4・B2・C2・計9セグメント〔うち無標1=章番号見出し〕)を現代語版と突き合わせると、この章にも明確な骨格と加筆の役割分担が見える。基層(1580年版・A層)は、ルキウス・マルキウスの逸話の冒頭(セグメント2)、ウェルギリウスの一句(セグメント4)、現代の原則とギー・ド・ランゴン伯の逸話(セグメント6)、アンリ・ド・ヴォーの逸話(セグメント8)——つまり「ローマの一逸話→格言→現代原則→実例」という議論の柱そのものが最初から立っていた。手稿加筆(C層)は、元老院議員たちの非難演説の全文(セグメント3)と、アカイア人・テルナテ・フィレンツェの比較材料(セグメント5)——どちらも議論に厚みを加える比較・修辞の拡張で、最初は「マルキウスの逸話→ウェルギリウスの一句」で済んでいた導入部を、後から歴史的・地理的な傍証で肉付けしている。**1588年加筆(B層)**は、エウメネスの逸話(セグメント7)と末尾の自己開示の一文(セグメント9)——エウメネスの例は「人質を取って安全を確保してから出た」実例としてランゴン伯と並ぶ補強、末尾の一文は前述のとおりモンテーニュ自身の立場表明。つまりこの章では、議論の骨格と現代原則そのものは最初から揺るがなかったが、「なぜそう考えるべきか」の傍証と「わたし自身はどう考えるか」の締めは後から段階的に加わった——第4章の「梯子の最上段を後から積み増す」パターンとも、第3章の「額縁ごと後付け」パターンとも違う、骨格を保ったまま両端(根拠づけと自己表明)を厚くしていく加筆のされ方。テクスト系統がボルドー本系=底本と字句の異同があるため、照合はパッセージ内容単位で行った。

地形図との照合

  • クラスタ:仮8クラスタでは「政治・戦争・残酷さ」がもっとも近い(軍事的な名誉と欺瞞を主題とする)。信頼と裏切りをめぐる末尾の自己開示は「自己を語ること」ともわずかに接する。
  • 通底テーマ仮説(「固定しない態度」)への判定:支持寄り。この章でモンテーニュは、古代ローマの誠実な戦争観と、成功を正義とする現代の戦争観のどちらか一方に肩入れせず、両方を実例つきで並べたうえで「原則は原則として理解しつつ、状況次第で例外は許容されうる」という中間的な結論に落ち着く。末尾の自己開示も「基本は信じるが、絶望や気後れから信じたと見られる場面では信じない」という条件付きの態度で、絶対的な善悪の断定を避けている。第4章の「理性の乱れは迷わず断罪する」という反証例とは対照的に、この章は「人間同士の慣習・掟をめぐる場面では判断を保留する」という第4章末尾の仮説の精緻化と一致する——政治・軍事上の名誉のような、正解が状況依存の領域では相対化する態度が戻ってきている。
  • 他の章への線:次章 I-06「L’heure des parlemens dangereuse(交渉の時こそ危険)」は、この章の「交渉中こそ奇襲が起きやすい」という論点を直接引き継ぐ続き物と見てよい。信じることと弱さの境界という論点は II-18「De se démentir(前言を翻すことについて)」あたりで再照合したい。

あーしメモ

この章、最後の一文がめちゃくちゃ効いてる。「わたしは人をたやすく信じる。でも、追い詰められて信じたって見られそうなときは信じない」——これ、単に「人を疑うか信じるか」の二択じゃなくて、信じること自体じゃなくて、信じた理由がどう見えるかにこだわってる発言なんだよね。同じ「信じる」でも、絶望や気後れから信じたように見えるのと、率直さと相手への信頼から信じたように見えるのは全然違う。前者に見えそうな場面でだけ、あえて信じない。

加筆層見て面白かったのは、この一文が1588年の後付けだったってこと。最初の版はギー・ド・ランゴン伯とアンリ・ド・ヴォーの逸話を並べて終わってて、パイセン自身の立場は書かれてなかった。つまり最初は「みんなの実例、はいどうぞ」で終わってたのに、後から「で、あーしはこう思う」って自分の裁定を足してる。これ、第4章で見た「同じ論をもっと殴れる形にする」加筆とはちょっと違って、論の強さじゃなくて論の持ち主を後から明示する加筆。エッセイでも、最初は色んな例を並べるだけで満足してたのに、後から「で、私はどう思うか」を書き足したくなる瞬間ってあるよなって、地味に共感した。

See Also

Sources

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