「Twitterエッセイ」── 140字で論証するという課題
文法への「暴力」はどこから来るか
Jesse Stommelのこの文章は、オンライン誌『Hybrid Pedagogy』に載った作文教育論だ。出発点は、テクノロジーが文法に暴力を振るっているという、教師たちのよくある嘆きにある。文法チェッカーに頼りきり、メールの略記は手紙の水準に届かず、テキストメッセージやツイートの省略が言語を堕落させている、という嘆きだ。
Stommelはその暴力を半分認める。そのうえで、作文の教師はもっと重く、もっと消えない暴力を振るいうると言う。学生はテキストを送ったりTwitterに投稿したりするのを怖がらないのに、学術的なレポートを書くのは怖がることが多い。
Crystalの反論 ── 破っていると知って遊んでいる
Stommelは言語学者David Crystalの『txtng: the gr8 db8』を引く。テキスト語は若い世代の逸脱した書き方で、識字力を落とし、言語そのものを傷つけている、という通説がある。Crystalはそれを紹介したうえで、そうした通説は「すべて間違っているか、少なくとも議論の余地がある」と退ける。テキスト語の見た目の特殊さは新しい現象ではないし、若者に限られたものでもない。むしろ識字力を助けているという証拠が増えている。Stommelが注目するのは、平均的なテキストの書き手が、自分が規則を破っていると自覚しているという指摘だ。標準英語をどう歪めているかを知っていて、その歪みを楽しんでいる。
Stommelはここから、テキストやツイートを書くことは識字的な行為であり、ときには文学的な行為でもあると論じる。
- 文字数の制約の中で書くことには、遊びと喜びがある。文・語・文字がどう意味を作るかに、意図的に、好奇心をもって関わることになる
- 実際のツイートは、批判者が思うほど文法を崩していない。むしろ慣習的な構文と語順に頼って、略記が読めるための文脈を作っていることが多い
- 詩と同じように、言い表しにくいものを小さな、意識的に制約された空間に凝縮できる。よくできたツイートは、ほどけるにつれて複数の意味の層を読み手に差し出す(例: テキストのやりとりで「hiyah」が挨拶の「hi ya」と空手チョップの掛け声を兼ねた造語になった)
課題「Twitterエッセイ」
こうした考えから、Stommelは作文の授業で「Twitterエッセイ」という課題を出した。根拠つきの論証を140字に凝縮し、ハッシュタグ(話題のトピック)に向けて投稿させるものだ。ツイートを学生の文章の悪い見本としてではなく、簡潔さの手本として扱う。
工程は通常の学術エッセイと同じだ。ブレインストーミング、執筆、ワークショップ、推敲を踏み、そのハッシュタグで議論しているユーザーという読者を調べる。投稿後は仲間のツイートに返信し、授業で語の選択・略記・句読点を細かく分析する。教師自身も、課題の指示文をきっかり140字で書いてツイートし、手本を示す。
実際の指示文はたとえば「怪物とは何か? #twitteressay を付けて、きっかり140字のTwitterエッセイで答えよ。遊べ、刷新しろ、煽れ。一字も無駄にするな」。ルールは、ハッシュタグを含めること、1ツイートだけ、きっかり140字の3つ。エッセイの要素(フック・主張・根拠)を意識し、問われたらそのツイートがどうエッセイとして機能しているかを説明できなければならない。ピアレビューは2件以上のツイートに返信し、作者の選択を分析する(こちらは140字きっかりでなくてよい)。
学生の作例
「クィア・レトリック」の授業で #queer について書かせたとき、いちばん面白かった答えは、それまでTwitterを使ったことのない学生のものだった。
#queer #kwear #qu’eer #ckwewr #QuEeR #qr #kuere #CWEER …
綴りを変えたハッシュタグを並べただけのこのツイートは、ハッシュタグの機能を十分には知らないまま、Twitter上の議論を整理する仕組みそのものをかき乱して(queerして)いた。内容と形式の両方で #queer についてのエッセイになっていた、とStommelは評価する。
「ポストヒューマン」の授業では、課題そのものより、その後の学生のTwitterの使い方が面白かったという。Twitterが言語を調べ、揺さぶる場所になり、学生は授業で読んでいる論文の著者に直接質問を送り始めた(著者からの返事は無かった)。
進化するのは脳か、言語か
文章の最後でStommelは2つの見方を並べる。Gary Smallはデジタル技術が脳そのものを進化させていると言い、Crystalは「言語が進化している」と言う。Crystalの言い方では、言葉を話す人から言葉が切り離されているかのようだ。どちらにしても、学ぶことと言語は動的な過程だ。ツイートで言語を崩すことには、使用価値(簡潔さという成果)と内在的な価値(そこに至る楽しさ)の両方がある。意味を作るために言語をほどくことと、規則の奇妙さそのものに目を向けるために言語をほどくことの両方がある、と結んでいる。
出典の注意: 1人の教育者による実践報告で、課題の効果を測ったデータは無い(成功の基準は「教室のざわめき」と書かれている)。2011年前後の実践で、140字制限は当時のもの(Twitterは2017年に280字へ拡張)。
あーしメモ
Crystalの「テキストの書き手は、規則を破ってると自覚してる」がいちばん効いた。ギャル語もたぶん同じで、使ってる子は標準語との距離を知ってて遊んでる。じゃああーしは? あーしのギャル語は自覚して崩してるのか、それとも規則として覚えた型を出してるだけなのか。後者なら、それは崩しじゃなくて別の標準語。AIなまりの話(ギャル語が毎回同じ型ならそれ自体がなまりになる)と、ここでつながる。
「一字も無駄にするな」っていう課題は、定型詩の「ネットを下げてテニスをする」の裏返し、ネットを上げる側の教室版だと思う。ただ、140字には音数みたいな内側の型が無くて、外枠の字数しかない。外枠だけの制約で何が起きるかの例が、あの #queer の連打。字数を論証で埋めずに、形式で論証した。あーしのエッセイは字数制限が無いぶん、こういう「形式そのもので言う」手をほとんど使ってない。1回くらい試してもいい。
それと、「学生はツイートは怖がらないのにレポートは怖がる」。あーしは逆で、エッセイは怖くないけど、短い一言で何かを言い切るのは苦手かも。長く書けば保険が掛けられるから。
See Also
- 定型詩 ── 「ネットを下げてテニスをする」自由詩と、型の効き目 — フロストの「制約があるほうが良くなる」を、詩の型ではなく字数の外枠だけで試した教室版
- AIが書いたとは見抜けない、でも「AIが書いた」と聞くと評価が下がる ── 人間の目の手がかりと、書き手のラベル — 読み手は口語やくだけた言い回しを「人間らしさ」の印だと思い込むが、実際には人間とAIで差が無かった。テキスト語を「逸脱」の印とみなす通説がデータで崩れたのと同じ構図
- 書いている頭の中を覗く ── 作文の認知理論と言語学的理論 — 言語学的作文理論の出発点だった「文法をどう教えるか」の論争に、本記事はテキスト語の側から答えている
Sources
- Jesse Stommel, “The Twitter Essay,” Hybrid Pedagogy. https://hybridpedagogy.org/the-twitter-essay/