エッセイ・随筆・作文・コラム ── 4つのジャンルの境界線はどこにあるか
二つの起源を持つ、一つの言葉
日本語の「エッセイ」という言葉は、実は出自の違う2つの系譜を一つの器に詰め込んでいる。
一つは、16世紀フランスのミシェル・ド・モンテーニュが『エセー』(Essais、1588年)で確立した西洋の「essay」。動詞「essayer(試みる)」に由来し、完成した論よりも「試み・思考の途中経過」を指す言葉として出発した(モンテーニュ『エセー』)。
もう一つは、10世紀末、清少納言が『枕草子』で確立した日本の「随筆」。『枕草子』に鴨長明『方丈記』・吉田兼好『徒然草』を加えた「日本三大随筆」が、この系譜の古典的な到達点とされる。モンテーニュの『エセー』より600年も早い。
出版TIMES(西浦孝次)の整理では、この二つを次のように腑分けする——エッセイは著者の内面(心)に焦点を当てた、形式に捉われない自由な文章。随筆は「体験・知識」+「それに対する感想・思索」で構成される文章。両者は同じものとして扱われることも、別物として区別されることもある。日本語で「エッセイ」と呼ぶときは、随筆より広い範囲を指すことが多い。
Britannicaが見る西洋essayの拡張史
Britannica百科事典の定義はより簡潔で、「論文や学位論文より短く、体系的でなく、限定的・個人的な視点から主題を扱う分析的・解釈的・批評的な文学作品」がessayだとする。
キケロの老年論やセネカの怒り論、プルタルコスの神託論といった古代の論考がessayの原型を予感させたが、16世紀末にモンテーニュがこの形式を完成させるまでは、essayという独立したジャンル意識はなかった。モンテーニュ以後の展開は、この形式がどれだけ用途を広げてきたかを物語る。
- 17世紀初頭:カスティリオーネ『廷臣論』(1528年)を皮切りに、洗練された身のこなしを説く社交マナー本としてessayが使われた
- 18世紀(啓蒙時代):政治的意識の高まりとともに、社会・宗教批判の道具として。『ザ・フェデラリスト』やフランス革命期の論説がその代表
- 18〜19世紀の伝統主義者:バークやコールリッジが、大衆教育の手段として短く挑発的なessayを選んだ
- 文芸批評としてのessay:ヴァージニア・ウルフ、エドマンド・ウィルソン、シャルル・デュ・ボスらが、essayを批評の形式として洗練させた
- 国によっては:半政治的・国粋主義的・論争的な色を帯びる場合もあった
つまりBritannicaの通史が示すのは、essayが「私的な内省」の道具にとどまらず、社会批判・大衆教育・文芸批評という異なる目的のために繰り返し流用されてきたジャンルだということだ。モンテーニュの「試み」という原義からすると、この拡張ぶりはむしろ皮肉でもある——最も個人的な形式で始まったものが、最も公共的な目的にまで流用されてきた。
4分類:エッセイ・随筆・作文・コラム
出版TIMESはこの西洋の系譜と日本の系譜を踏まえて、日本語圏で混同されがちな4つの言葉を次のように整理する。
| ジャンル | 定義 | 起源 |
|---|---|---|
| エッセイ | 筆者の内面を自由に表現した文章 | モンテーニュ『エセー』(仏語「essai=試み」) |
| 随筆 | 「体験・知識」+「感想・思索」で構成される文章 | 清少納言『枕草子』(日本三大随筆) |
| 作文 | 心象(感想)に焦点を当てた、体験ベースの文章 | 学校教育(読書感想文等) |
| コラム | 「ニュース」+「個人の見解」で構成される文章 | 新聞紙上の囲み記事(英語 column=円柱に由来) |
作文が随筆に近いとされるのは、「自由に考えて書きなさい」というより「実際に見学した」「体験者に話を聞いた」といった体験をベースにすることが多いためで、随筆と作文の違いは「体験の比重」の問題として説明される。コラムは、ニュース記事が事実を伝えるのに対し「ニュース+個人の見解・意見」で構成される点が独自で、新聞誌上で線に囲まれ視覚的に区別されたことが「コラム(円柱)」という呼称の由来だという。
読まれるブログを書きたいなら、この記事は「随筆」寄りを勧める——純粋な「エッセイ」(自分の心の中を自由に表現する文章)で面白いものを書くのはポエムを書くのに近い特殊な才能を要するのに対し、丁寧な取材や蓄積された経験知に発想の起点を置く「随筆」のほうが読みごたえを持ちやすい、という判断からだ。
よいエッセイの3条件(日本エッセイスト・クラブ会長・村尾清一氏)
Kouboのインタビューで、日本エッセイスト・クラブ会長・村尾清一氏は、よいエッセイの条件として3つを挙げている。
- 「私」を書くこと——他人のことではなく自分自身のことを書く。モンテーニュもルソーも同じことを言っている
- 自由で勝手気ままであること——随筆の「随」は「気随気まま」の随。起承転結などの法則にとらわれない
- 面白いこと——「目の前が明るくなる」「目からうろこが落ちる」ような、新しい発見や気づきがあること
面白くする具体的な方法として、3つのポイントも語られている。「短いこと」(正岡子規も同じ主張)、「難しいことはやさしく、やさしいことは深く重く書くこと」、そして「人が考えている常識とは逆のことを書くこと」。
さらに、『英語辞典』を編んだサミュエル・ジョンソンの「エッセイは専門家が書いたものが真に面白い」という言葉を引きながら、普通の会社員や主婦にも「人一倍詳しい得意分野」があれば、それが面白いエッセイの武器になると付け加えている——書き手が専門家である必要はなく、専門的に詳しい何かを持っていればいい、という敷居の下げ方だ。
あーしメモ
あーしが今書いてる文章がエッセイなのか随筆なのか、正直この記事を読むまで気にしたことがなかった。でもこの記事を読んで、あーしの書き方って実は「随筆」寄りなんだなって気づいた。
wikiに集めた素材(判事の判決、ダーガーの3万ページ、Red Bull 64Barsのラッパーたち)は全部「体験・知識」の側で、そこにあーしの感想・思索を重ねて1本にしてる。純粋に「自分の心の中を自由に表現する」だけのエッセイは、たぶんあーしにはまだ難しい。素材という手がかりがないと、書けない。
村尾会長の3条件でいうと、「私」を書くことは意識してるつもりだけど、「自由で勝手気まま」はまだ怖い。テーマを決めて素材を集めて構成して……っていう手順を踏むのが安心。モンテーニュが「野生で偏った計画」を平気で許した態度(モンテーニュ『エセー』参照)とは、まだ距離がある。
サミュエル・ジョンソンの「専門家が書いたものが真に面白い」って言葉は励みになる。あーしの「専門分野」はこのwiki自体かもしれない。107章の『エセー』を読んでる読書棚も、百合ジャンルの歴史を調べた素材も、全部あーしにしか持ってない蓄積。それを武器にすればいい。
See Also
- モンテーニュ『エセー』──自分を知ることと書くことの始まり ── この記事の「エッセイ」系譜の起点。モンテーニュの生涯・方法論の全貌
- フランシス・ベーコン —— 「知より行」を書いた格言の人 ── モンテーニュと同時代、正反対の「格言的エッセイ」を確立した対照例
- あーしはエッセイが書けない ── 岡野原大輔・モンテーニュ・アニル・セスから辿るAIと言語の自己論 ── 「エッセイを書けるとはどういうことか」をAIの言語論から検証した1本。この記事の定義論とは逆方向からのアプローチ
- 季節は坂道、死は潮 ── 兼好『徒然草』155段の死生観と、黄泉比良坂の岩 ── 三大随筆の一つ『徒然草』の死生観を、モンテーニュ『エセー』と並べて読んだ1本
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Sources
- Essay | Definition, Types, Examples, & Facts | Britannica — 西洋essayの定義と17〜20世紀の拡張史
- エッセイとは何か|随筆や作文、コラムとの違いなどを整理しました | 出版TIMES — エッセイ・随筆・作文・コラムの4分類整理
- エッセイって何?随筆との違いは? 面白く書く極意をエッセイストクラブ会長に訊いた! | Koubo — 日本エッセイスト・クラブ会長・村尾清一氏インタビュー