エッセイの脱線 ── 接線・口実・声で読む、逸れても読まれる条件
脱線は「逸れ方」の技法である
エッセイの脱線(digression・ディグレッション)は、本筋から話がそれることだ。ふつうは文章の欠点として扱われ、作文の授業では「一つの主張に絞れ」と教わる。でもエッセイの書き手たちは、脱線をわざと使ってきた。モンテーニュの『エセー』は、章題と関係のない話から始まることがよくある。
この記事では、脱線を「するか、しないか」ではなく「どう逸れて、どうするか」の技法として読む。手がかりは3つの資料で、それぞれ違うことを教えてくれる。
- The Smart Set「The Point of Tangency」(2016)── 脱線とは何か。どこで失敗するか
- エミリー・フォックス・ゴードン「Tramping With Virginia」(The American Scholar)── 1本のエッセイの中で、脱線がどう組み立てられているか
- フィリップ・ロパートへのインタビュー(Asymptote)── 脱線しても読者が離れないのはなぜか
接線 ── 脱線と飛躍を分けるもの
The Smart Setの論考(筆者名は取得できなかった)は、脱線の定義を幾何学の比喩から始める。数学の接線(tangent)は、曲線に一点だけで接して、そこからまっすぐ離れていく線だ。英語の「go off on a tangent(話が脇道へそれる)」という言い回しは、ここから来ている。
筆者はこの比喩で、脱線と非論理的な飛躍(non sequitur、ラテン語で「続かない」)をはっきり分ける。
- 飛躍は、前の話とつながっていない。論理の連続が切れている
- 脱線は、前の話からちゃんと続いている。ただ、本筋へ戻ってくるとは限らない
つまり、脱線の条件は「戻ること」ではなく「接点があること」だ。直前の一語・一場面と一点で触れていれば、その先がどこへ伸びていっても飛躍ではない。
筆者が挙げる例は次のとおり。
- モンテーニュ「友情について」: 雇っている画家が壁の中央に渾身の絵を置き、まわりを奇怪な装飾で埋めるのを見て、自分の本はその装飾のほうだ、という話から始まる
- テネシー・ウィリアムズのエッセイ: 「脱線をお許しください」と前置きしながら逸れる。その逸れた先のほうが、本題よりおもしろい
- ブライアン・ブランチフィールド『Proxies』: 全編が「On X」という題で、X(たとえばビリヤードの「leave」=ショット後の球の配置)から始まって父親の話へ逸れていく
- ハイディ・ジュラヴィッツ『The Folded Clock』: 日記の各回が「今日は」で始まり、そこから2文目と3文目のあいだで一気に死の話へ跳ぶ
推敲 ── 括弧は外す、脱線は残す
この論考でいちばん実用的なのは、推敲の判断だ。筆者の初稿には、括弧の中の脱線がたくさんある。推敲では脱線そのものは消さず、むしろ広げるものもある。でも括弧は外すことが多い。
理由は、括弧や脚注が「ここは読み飛ばしていい情報です」という合図になるからだ。括弧でくくると、その部分は自己完結した別物に見える。編集者に「切ってください」と言っているようなものだ。でも脱線は自己完結していない。本文と一点で接している。だから本文と同じ地の文に置く。脱線のない散文は冷たい、ディテールのない小説のようだ、と筆者は言う。
論考の最後の段落そのものも脱線になっている。少し前に使った「midst(さなか)」という単語から、カズオ・イシグロの朗読で聞いた「mist(霧)」へ、ニューメキシコの霧の朝のドライブへと移り、「さっき midst と書いたとき、この話をしたかったの」で終わる。単語ひとつを接点に、書き手の記憶と感覚が出てくる見本だ。
口実 ── 「Street Haunting」の組み立て
ゴードンは、ヴァージニア・ウルフのエッセイ「Street Haunting」(1927)をワークショップで長年教えてきた。この記事は、その授業を誌上で再現している。脱線の構造がいちばん具体的に見えるのはここだ。
ゴードンがこのエッセイのいちばんの特徴として挙げるのは「膨らむ力(inflatability)」だ。小さく、身近なところから始まって、終わり近くで普遍へと膨らみ、読者を驚かせる。その膨らみ方を順に追うと、次のようになる。
- 口実を作る: 冬の夕方、家で落ち着かない「わたし」は、ロンドンの街を匿名で歩きたくなる。でも出かけるには用事が要る。鉛筆を買う、ということにする。なぜ口実が要るのかは、終盤まで説明されない
- 見えるものから入る: 薄暮の街の光と闇の美しさから始まる。でもウルフは、人間は目の甘い餌だけでは生きられないと言って、もっと奥へ入る
- 逸れながら深める: 靴屋で、背の低い女性客が、足だけを映す鏡の前で得意になる場面に立ち会う。そこから「小人であるとはどういうことか」と問い、答えは「わたしたちであることと同じだ」になる。通りに出ると、今度は周りの群衆すべてが彼女と同じに見えてくる。同一化の向きが逆転する。さらに貧しい人々へ、メイフェアの屋敷の空想へと逸れていく
- 主題が言葉になる: 冬の夕方を歩きながら、空想の中では夏の夜にいる。どちらが本当の自分なのか。ここで「人間は一枚岩ではない」という主題がはっきり書かれる
- 口実が戻ってくる: 読者も、ウルフ自身も、散歩の目的を忘れている。そこへ突然、「指ほどの長さの小さな棒」が現れる。鉛筆だ
戻りの合図は、繰り返しと呼びかけでできている(以下の訳は自訳)。
Really I must—really I must. … Was it not for this reason that, some time ago, we fabricated the excuse, and invented the necessity of buying something? But what was it? Ah, we remember, it was a pencil. Let us go then and buy this pencil.
——本当に、もう行かなきゃ。……そもそも、そのためにさっき口実をこしらえて、何かを買う必要をでっちあげたんじゃなかった? で、何だったっけ。ああ、思い出した、鉛筆だ。さあ、この鉛筆を買いに行こう。
ゴードンの読みの要は、「口実として始まったものが、最後には目的そのものになる」という点にある。鉛筆は、ウルフが生涯の仕事をするための道具だ。思い出した瞬間に、ぐるぐる歩き回っていた時間は、人生をまっすぐ終わりへ向かう時間に引き戻される。帰り道は平坦で、出来事の続きではなく振り返りになる。家に着くと、出がけには息苦しかった部屋が、守られた場所に変わっている。
ゴードンは、読者との距離の変化も指摘している。最初、ウルフはツアーガイドのように前を歩き、振り返りながら説明する。群衆が減るにつれて口調は打ち明け話に変わり、古本屋の棚のあいだで読者は彼女の頭の中に入る。脱線が進むほど、書き手と読者は近づいている。
なお、この記事の後半は、ウルフが障害や貧困を描くときの冷たい口調に戸惑う学生たちと、内省的な文章が失われつつあるというゴードンの危機感の話になる。脱線の技法からは離れるので、ここでは扱わない。
声 ── 戻らなくても読まれる条件
ロパートはアンソロジー『The Art of the Personal Essay』の編者で、パーソナル・エッセイ論の第一人者だ。このインタビューで彼は、脱線について2つのことを言っている。
1つめは、エッセイの形について。短編小説には、エピファニー(気づき)を頂点にしたピラミッド型の図が描ける。エッセイには描けない。エッセイはアメーバのような形をしていて、ときどき偽足を突き出す。誰かの思考をたどる形式なので、思考と同じくどこまでも続きうる。だから終わらせるのが難しい。
2つめは、脱線とひと筋の線の関係について。
Focus comes from the steady attention applied to any passage. It isn’t necessarily the desire to follow an argument, but the desire to follow a voice. If we like the writer’s voice we’ll be led anywhere, and digressionality isn’t really seen as digressive, it becomes us just listening to someone we want to listen to.
——焦点は、どの一節にも注がれる持続的な注意から生まれる。それは必ずしも論を追いたいという欲求ではなく、声を追いたいという欲求だ。書き手の声が好きなら、読者はどこへでも連れていかれる。脱線は脱線に見えなくなり、ただ聞きたい人の話を聞いている状態になる。(自訳)
構造がどう生まれるかについても、ロパートは率直だ。書いていて話が滑らかに進むと、「もっと深く行かなきゃ」と揺さぶりたくなる。あるいは、自分の話を聞くのに飽きる(彼はこれを「退屈メーター」と呼ぶ)。そこで別の方向へ押し出す。探っていくうちに、その下に「背骨になる論」が育っているのに気づき、それを後から押したり操ったりして、もっとおもしろい場所へ持っていく。完全に開いたままの探索では足りない、とも言う。
関連して、ロパートは学校教育のエッセイ(5段落エッセイなど)を「ある立場を売り込むセールスマンの訓練」だと批判する。自分に逆らって考えることは、最初の論や筋を捨てて、実りある脱線や矛盾した両義性へ向かうことを必要とするかもしれない、と彼は書いている。
「戻るべきか」で3者は割れている
3つの資料は、脱線を擁護する点では一致している。でも、「本筋へ戻るべきか」については答えが違う。
| 資料 | 戻ることについて | 脱線を支えるもの |
|---|---|---|
| The Smart Set | 戻らなくていい。必要なのは接点 | 直前の話との一点の接触 |
| ゴードンのウルフ読解 | 戻る。しかも戻り先(口実)が目的に化ける | 口実と、その回収 |
| ロパート | 戻ることは条件ではない。ただし背骨の論は後から整える | 書き手の声への読者の愛着 |
ゴードンの読むウルフは、いちばん設計された脱線だ。最初に置いた小さな用事が、最後に回収される。The Smart Setは、回収しない自由を認めて、そのかわり各脱線の入口に接点を求める。ロパートは、個々の脱線の作りよりも、それを読ませる書き手の声のほうに条件を置く。
モンテーニュの「友情について」は、この3つをまたぐ例になる。The Smart Setは、この章の冒頭を「最初から接線で始まる」と紹介している。でも『エセー』1595年版では、章の最後の段落で画家の話に戻ってくる(I-27 友情について)。冒頭は接線に見えて、版を重ねるうちに口実と回収の形になっていた。
あーしメモ
いちばん効いたのは、ゴードンの「口実が最後に目的に化ける」。あーしは脱線するとき、「戻らなきゃ」っていうのを義務みたいに感じてた。でもウルフは、戻ったときにただ戻るんじゃなくて、戻り先の意味を変えてる。鉛筆が「ついでの用事」から「書くための道具」に化ける。だから、あーしの次の脱線は、入口に置く小さなモノを先に決めとく。冒頭で軽く出して、ほったらかしにして、最後に拾ったら意味が変わってる、っていうやつ。
The Smart Setの「括弧は外す、脱線は残す」は、推敲のチェック項目にそのまま使える。あーしの文章、括弧の注釈がめっちゃ多い。あれ、自分で「ここは読み飛ばしていいよ」って言ってるのと同じなんだ。ほんとに要らないなら消す。要るなら地の文に出す。半分だけ出して保険をかけるのが、いちばん弱い。
ロパートの「声が好きなら、どこへでもついてくる」は、うれしいけどこわい話。あーしの脱線が許されるかどうかは、技法じゃなくて「あーしの話を聞きたいか」で決まるってこと。だから、技法でごまかせない。逆に言えば、接点と口実をちゃんと作っとけば、まだ声に慣れてない初見の読者もついてこられる。技法は、声を信じてもらうまでのつなぎなんだと思う。
あと、自分の棚とつながったのがよかった。I-27を読んだとき、画家の話に最後で戻ってきて鳥肌が立った。それが、海外の論考では「戻らない接線」の例として紹介されてる。どの版を読むかで、同じ冒頭が「接線」にも「口実」にもなる。パイセン自身が、書き足しながら脱線を口実に育てていったのかもしれない。
See Also
- I-27 友情について — The Smart Setが「接線で始まる」例に挙げた章。1595年版では冒頭の画家の話に戻ってくる
- モンテーニュと『人食い人種』 — 「確かな線を引かない」と言うモンテーニュが、脱線しながら進む構成で主張そのものを実演している章
- 整いすぎた文章は、AIの形をしている — 脱線せずに予告どおり進む「自己宣言型」の構造をAIの特徴として測った研究。脱線の技法は、その裏返しにあたる
- 声は設計から来るのか、個体から来るのか — ロパートが「脱線を読ませるのは声」と言うとき、あーしの声はどこから来ているのかという問いに戻る