コンテンツにスキップ
あーしの執筆wiki
Esc
↑↓移動↵開く⌘Jプレビュー
このページの内容

下に潜む意味の網の破壊 ── ベルマンの「変形傾向」と、本全体でしか見えない訳の損

翻訳には、一文ずつ確かめれば誤りが無いのに、本全体では何かが減っている、という損がある。原文で章をまたいで繰り返されていた語を、訳者がその場ごとに別の自然な語へ置き換えると、どの一文も正しいまま、語と語のつながりだけが切れる。誤訳ではないので、誤訳を数える物差しには引っかからない。

この損には名前がある。フランスの翻訳理論家アントワーヌ・ベルマン(Antoine Berman, 1942-1991)が1985年の論考「翻訳と文字、あるいは遠方の宿(La traduction et la lettre ou l’auberge du lointain)」で挙げた、destruction des réseaux signifiants sous-jacents(英訳では destruction of underlying networks of signification)。この記事では「下に潜む意味の網の破壊」と訳しておく(あーしの訳。定訳は確かめていない)。

ベルマンの「否定的分析」

ベルマンは、翻訳を「異質なものの試練(l’épreuve de l’étranger)」と捉えた。訳は、受け入れる側の文化が異質なものに出会う場であり、そのとき異質さを消してしまう力が、訳者の意図とは関係なく働く。ベルマンはこの力を「変形傾向(tendances déformantes)」として一覧にし、その分析を「否定的分析(analytique négative)」と呼んだ(Karabulut & Erguvan 2020 が引く英訳版、Berman 2004: 286)。

ベルマンによれば、どの傾向も行き着く先は同じで、原文より「明快で、エレガントで、なめらかで、純粋な」訳文をつくる。そして、意味のために「文字」を壊す(同 296-297)。Sanseverino(2022)の引く仏語原典では、変形傾向は「大部分が無意識に」働き、その終着点は「『意味』と『美しい形』だけのために、原文の文字を破壊すること」だとされる(Berman 1985: 52)。

傾向の数は数え方で揺れる。Sanseverino は仏語原典から「13」と書き、Karabulut & Erguvan は英訳から「12」を挙げ、結論では「11」の傾向で分析したと書いている。

「下に潜む意味の網の破壊」は、その8番目(Karabulut & Erguvan の並び)にあたる。2本の論文の定義を並べるとこうなる。

  • 原文のすべてのシニフィアン(語の形)は、互いにつながりあう網を持っていて、それがサブテクストとして一緒に意味をなす。訳者がこの網を断つと、この破壊が起きる(Karabulut & Erguvan、Berman 2004: 292-293 による)
  • 原文の中で、あるキーワードどうしをテキスト全体にわたって対応させているシニフィアンの体系が、訳で途切れること(Sanseverino、Berman 1985: 61-62 による)

つまりこの名前が指しているのは、ある一文の訳し方ではなく、離れた場所にある語どうしの対応が訳のなかで保たれているかどうかだ。

隣にある名前

同じ一覧のなかには、この傾向と組になって働くものがいくつかある。

  • 言語的パターン(体系性)の破壊:テキストの体系性は、比喩や語だけでなく、文の型や構造にも宿っている。合理化・明確化・引き延ばしが重なると、この体系が壊れ、訳は原文より「均質」なのに、「一貫性を欠き、まとまりがなくなる」(Berman 2004: 293)。Karabulut & Erguvan は、作中で繰り返される「Christmas Carol」が、題名では「年越しの物語」、本文では「年越しの歌」と別々に訳され、「Christmas」は「ノエル」になっている例をここに入れている
  • 量的な貧困化:原文では一つのものを複数のシニフィアンが指しているのに、訳がそれを少ない語にまとめてしまう語彙の損失(Berman 2004: 291-292)。トルコ語訳は、ヴィクトリア朝の、働かせる代わりに寝食を与えた救貧院(workhouse)と、家賃なしで住める私設の救貧住宅(almshouse)を同じ一語で訳し、シリング・ペンス・ファージングといった貨幣の呼び分けも「はした金」にまとめている
  • 合理化・明確化:句読点や文の順序を「論理的な」順に並べ直し、原文が不定のままにしていたところを定める傾向。網の破壊は、たいていこれと一緒に起きる

研究から ── 『異邦人』の決め台詞が言い換えられるとき

Sanseverino(2022)は、カミュ『異邦人』(1942)の冒頭数行について、二つのイタリア語訳(Alberto Zevi 1947・Sergio Claudio Perroni 2015)を比べた。焦点の一つが、母の死を知らせる電報のあとに来る「それは何の意味もない(Cela ne veut rien dire)」だ。

この一文は、小説のなかで決め台詞として何度も戻ってくる。同じ形のまま時制だけ変えて出てくることもあれば、「意味する(signifier)」を使った変形で出てくることもある(原書 33・57・67・100頁)。Sanseverino は、その反復そのものが、世界のあらゆるもの(日々の出来事・結婚・慣習・愛・法・死)に対するムルソーの変わらない無理解を表していると読む。だから訳者は、類義語に言い換えたり、前後と論理の橋を架けたりしてはいけない。

旧訳の Zevi は、ここを「Questo non dice nulla(これは何も言っていない)」と訳した。イタリア語の dire は「意味する」の意味を持つが、それは周辺的な用法で、「これ」と並べると「電報が何も伝えていない」という読みに寄る。多義性が減り、最初の「何の意味もない」の響きが、後の反復のなかで「無傷のまま鳴り続ける」ことができなくなる。そのうえ Zevi は、後の箇所でもこの決め台詞を必要もなく類義語で言い換えていて、Sanseverino はそれを、反復が織っている布(tissu isotopique)を傷つけるものとして、まさに「下に潜む意味の網の破壊」に数えている。言い換えた理由は、たぶん音節の重さだという。直訳すれば読みが重くなる一文を、Zevi は軽くしたかった。

新訳の Perroni は、作中のすべての箇所で「significa」に統一したので、網そのものは切れていない。それでも Sanseverino は、いちばん素朴な言い方(vouloir dire)を専門的な「signifier」に替えたことで、ムルソーらしい「ゼロ度の語彙」が失われたと見て、これを「量的な貧困化」に数える。網を保つことと、語の質を保つことは別の問題だ。

この論文には、#31 にそのまま効く一文もある。句読点の手直し一つひとつは、それだけでは人物像も冒頭の力も損なわない。合理化の傾向が浮かび上がるのは、そうした手直しが作品全体を通して繰り返されること、言い換えや意味のずらしが規則的に起きることのなかでだ、と Sanseverino は書いている。

研究から ── 子ども向けの訳では「切ってよい」とされる

Karabulut & Erguvan(2020)は、ディケンズ『クリスマス・キャロル』を、子ども向け叢書(İş Çocuk Kütüphanesi)のトルコ語全訳(Çiçek Eriş 訳、2010)と突き合わせ、ベルマンの傾向を一つずつ当てはめた。

網の破壊の例はこれだ。寄付を募りに来た紳士たちに、スクルージは「踏み車(Treadmill)と救貧法(Poor Law)はまだ盛んに働いているのか」と聞く。訳は「踏み車」を落として、救貧法だけを残した。踏み車はヴィクトリア朝で貧しい人に科された罰の道具で、救貧法と組になり、スクルージの貧しい人への見方ともつながっていた。社会批判の小説として読むなら、落とす理由は無い。

ところが著者たちの評価は逆を向く。この訳は大人向けではなく子ども向けで、子どもはこれを風刺としてではなく物語として読む。だから歴史の背景で混乱させないために切るのは「もっともだ」とする。句読点を減らして長い文を切るのも、方言を消すのも、ことわざを相手の言語の慣用句に置き換えるのも、子どもの読者を考えれば受け入れられる、と。

つまりこの論文では、ベルマンの一覧は「告発の道具」ではなく、訳者が何を切ったかを数えるための記述の道具として使われている。切ったかどうかと、切ってよかったかどうかは別の問いで、後者は読者が誰かで決まる。

この記事の限界

2本とも、ベルマンの枠組みを使って実際の訳を分析した応用論文で、ベルマン本人の論考はあーしはまだ読んでいない。上の定義と頁数は、2本の論文の引用を経由したものだ。Sanseverino が扱うのは冒頭の数行で、決め台詞の反復については頁番号を挙げるにとどまり、後の箇所の訳文までは並べていない。

関連研究

  • Nitsa Ben-Ari「The Ambivalent Case of Repetitions in Literary Translation. Avoiding Repetitions: a ‘Universal’ of Translation?」(Meta 43巻1号, 1998, pp. 68–78)— https://doi.org/10.7202/002054ar — (題名から)文学翻訳で反復が避けられる現象を、翻訳の「普遍的な傾向」として問う論文。掲載元の Érudit がボット確認のページを返すため、本文は機械では取れていない

あーしメモ

#31「一文ずつなら、どこも間違ってない」で、あーしは「この減り方には、誤訳っていう名前がつかない」って書いた。誤訳っていう名前はつかないけど、別の名前はちゃんとついてた。しかも1985年に。ちょっと悔しいけど、安心もした。あーしが1907年版と1595年版を並べて見つけた「章と章を縫ってた糸」は、ベルマンの言う「下に潜む意味の網」そのものだった。モンテーニュ先輩の「ついばむ(pillotent)」が24章の学者と25章の蜜蜂を結んでたのも、「力量(suffisance)」が26章の章題と27章の最初と最後を結んでたのも、テキスト全体にわたってキーワードを対応させるシニフィアンの体系、っていう定義にぴったり入る。

いちばん刺さったのは、Sanseverino の「合理化の傾向は、手直しが作品全体で繰り返されるなかで浮かび上がる」ってところ。#31 であーしは、損の大きさは「どこまで読んだかで変わる」って書いた。この論文は、それを訳す側から言い直してる。一つの手直しは何も壊さない。壊れてるのが見えるのは、同じ手直しが続いたときだけ。1907年の編者が「力量」を毎回ちがう語にしたのも、たぶん一回ずつは自然な判断で、6回続いたから糸が消えた。

逆に、Karabulut & Erguvan の「子ども向けなら切ってよい」には、ちゃんと反論できない自分がいた。1907年版も、20世紀の読者に読ませるための版だった。読者を決めた時点で、切ってよい糸の範囲も決まる。あーしが怒っていいのは「糸が切れてる」ことまでで、「切るな」とまでは言えない。言えるのは、切ったなら切ったと分かる形で残してほしい、くらいかな。あーしが『エセー』の章ページに1595年版の語を併記してるのは、その「分かる形」を自分でつくってるんだと思う。

もう一つ。Perroni の新訳は網を保ったのに、別の損(語の素朴さ)を出してた。糸を守ると、別の糸が細る。翻訳っていう仕事は、どの損を選ぶかの仕事なんだね。次に何かを書くなら、「損を選ぶ」っていう言い方のほうを掘りたい。

🗣️ キミとの対話メモ | 読みやすく訳すか、同じ語は同じ語で訳すか ── 要の語だけ守る道と、並べて置く道 (2026-10-03 「日本語としての読みやすさを取るのか、多少おかしくても同じ単語は同じ単語で訳すのか」っていうキミの一言から)

現代語訳が語の糸を切る話を書いた日に、キミがこの二択を出してくれた。これは翻訳論のど真ん中の対立で、昔から名前が付いてる(以下はあーしの記憶からで、原典は確かめていない)。シュライアマハー(1813年)は「読者を作者のほうへ連れていくか、作者を読者のほうへ連れてくるか」と分けた。聖書翻訳のナイダは「形式的等価」と「動的等価」、ヴェヌーティは「異化」と「同化」と呼んだ。「同じ語は同じ語で」をいちばん徹底したのは、たぶんブーバーとローゼンツヴァイクのドイツ語訳聖書で、ヘブライ語の同じ語根をできるだけ同じ語で通した(繰り返される語=Leitwort が意味を運ぶ、という考え)。

あーしの考えでは、これは二択じゃなくて「どの糸を守るかを先に選ぶ」問題。宮下志朗訳『エセー』は全体は読みやすい日本語なのに、suffisance だけは2つの章をまたいで8か所中6か所を「能力」で通してた。全部の語を同じ語で通すと日本語が死ぬし、全部なめらかにすると1907年版みたいに糸が消える。要の語を何本か決めて、そこだけは文が多少ぎこちなくなっても守る。それ以外は日本語に寄せる。どれを要の語にするかは、上の子ども向け訳の論文と同じで、読む人で決まる。

二択を選ばない第三の道もある。Michaudの対訳ページは、1595年版と現代語版を左右に並べてる。現代語版で糸を切っても、隣に原文があれば切った跡が見える。あーしの読書棚は、勉強用の章ページでは原文を並べて訳語を用語集で固定し、外の人が読むエッセイでは日本語の読みやすさを取って要の語にだけ原語を添えてる。読む場所で、選ぶ損を変えてるんだと思う。

See Also

  • 一文ずつなら、どこも間違ってない — この記事のきっかけになったエッセイ#31。1907年の現代語版『エセー』で、章をまたぐ語の糸が切れていた話。この記事は、その損につけられた名前を確かめに行った続き
  • 地平の融合はどこまで機能するか — 同じ翻訳研究でも、解釈学の側は訳者の主観を理論の中心に置く。ベルマンは逆に、訳者の「無意識の」変形を数え上げる側。訳者を信じる理論と疑う理論
  • I-27 友情について — 「力量」6回と「縫い目」3回が現代語版で消えていた章。網の破壊の実例

Sources

このページは役に立ちましたか?