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I-51 言葉の空しさについて(Combien vaines sont les paroles.)

『エセー』全107章を1章1ページで読む読書棚の51冊目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版(1595年版テクスト)。引用はあーしの直訳で、原文(現代語版)を併記する。語を根拠にしたところは、対訳ページの1595年版の列で元の語を確かめている。ボルドー系の章番号でも第51章。

この章で何が起きるか

章は、昔のある修辞家の自己紹介から始まる。自分の仕事は小さなものを大きく見せることだ、と。モンテーニュはすぐ靴屋にたとえて茶化し、スパルタなら鞭打ちだと言い、そのうえで弁論術を化粧と比べる。

Ceux qui masquent et fardent les femmes agissent moins mal, parce que l’on ne perd pas grand’chose à ne pas les voir au naturel, que ceux qui font profession de tromper, non pas nos yeux, mais notre jugement, d’abâtardir et de corrompre les choses dans leur principe même.

——女に仮面をつけ化粧をほどこす者たちのほうが、まだ害は小さい。女を素顔で見られなくても、たいした損ではないからだ。害が大きいのは、わたしたちの目ではなく判断を欺くことを生業にし、物をその根本からだめにし、腐らせる者たちのほうだ。〔B〕

ここから話は国の大きさへ移る。クレタやスパルタのような秩序ある国は弁論家を重んじず、アリストンは弁論術を「民衆を説き伏せる学」と定義し、モンテーニュはそれを賢明だと言う。ソクラテスとプラトンは「欺き、へつらう術」と呼ぶ。では雄弁はどこで栄えるのか。

C’est un instrument très propre à conduire et à agiter la foule ou une populace dévoyée, et qui, comme la médecine, ne s’emploie que dans les états malades. Dans ceux où les gens du commun, les ignorants, où tous ont quelque peu part au pouvoir, comme à Athènes, à Rhodes, à Rome, où la chose publique était en continuelle agitation, les orateurs ont afflué. De fait, on ne voit pas beaucoup de personnages, dans ces républiques, acquérir une grande influence sans le secours de l’éloquence;

——それは、群衆や道を外れた民衆を導き、かき立てるのにうってつけの道具で、医術と同じく、病んだ国でしか使われない。庶民や無知な者たち、誰もが多少なりとも権力に加わっている国、アテナイやロドスやローマのように公のことがたえず揺れ動いていた国に、弁論家は押し寄せた。実際、こうした共和国で、雄弁の助けなしに大きな影響力を得た人物は、あまり見当たらない。〔A〕

ポンペイウスやカエサルも、武器より雄弁で上りつめた。もっといい時代はそうではなかった、とウォルムニウスの演説が証人に呼ばれる。戦に生まれた口べたこそ執政官向きで、弁の立つ者は町の法務官でいい、と。手入れされない野に草がいっそう勢いよく茂るように、雄弁は内乱のさなかに茂った。君主一人なら教育と助言で守りやすい。国の話がここまで来たところで、向きが急に変わる。

Un mot au sujet d’un Italien, avec lequel je viens de m’entretenir, qui servait chez feu le cardinal Caraffa en qualité de maître d’hôtel, emploi qu’il a conservé jusqu’à la mort de ce prélat. Nous parlions de sa charge et il m’a fait sur cette science de gastronomie une véritable conférence, débitée avec une gravité et une attitude magistrales comme s’il développait un point important de théologie.

——ひとこと、さっき話してきたイタリア人のことを。故カラファ枢機卿のもとで給仕頭を務め、その高位聖職者が死ぬまで勤めあげた男だ。彼の役目の話をしていたら、この美食の学について、まるで神学の大事な論点でも説くように、重々しく堂々たる態度で、正真正銘の講義をしてくれた。〔A〕〔→7〕

食欲の種類、ソースの段取り、季節ごとのサラダ、給仕の順序。帝国の統治を語るときの言葉で語られるこの講義に、モンテーニュは一つだけ譲歩を挟み、すぐに話の的を言い直す。

Notons que les Grecs eux-mêmes ont donné de grands éloges à l’ordre et à la disposition du banquet que leur offrit Paul Émile, à son retour de Macédoine; mais ce n’est pas de faits dont je m’occupe ici, je ne parle que des termes dont il est fait usage pour les exprimer.

——ギリシア人たちでさえ、パウルス・アエミリウスがマケドニアから帰って催した宴の秩序と配置を大いに褒めた、とは書き留めておこう。でも、ここでわたしが扱っているのは事実ではない。それを言い表すのに使われる言葉のことだけを話している。〔A〕〔→7〕

言葉の話だと決まると、給仕頭は一例になる。建築家の付け柱や軒蛇腹は、聞けばアポリドンの宮殿を思わせるが、実物はうちの台所の戸口の安普請だ。文法の用語も同じところへ下ろされる。

Quand vous entendez parler de métonymie, métaphore, allégorie et telles autres expressions employées dans la grammaire, ne vous semble-t-il pas que ce sont des locutions d’une langue peu usitée et choisie? cela s’applique cependant tout simplement aux formes du langage que votre femme de chambre emploie lorsqu’elle bavarde.

——換喩、隠喩、寓意、そのほか文法で使われる言い方を耳にすると、めったに使われない選り抜きの言葉のことのように思えないだろうか。ところがそれは、あなたの小間使いがおしゃべりで使う言葉の形に、ごくあっさり当てはまるのだ。〔B〕

最後の段は、これに「近い」もう一つの欺きとして、ローマの重々しい称号を中身の違う自国の官職に付ける話を出す。プラトン一人のものだった「神のごとき」の異名は、イタリア人がアレティーノに与えた。イタリア人が他国民より目ざといと自負するのには理由がある、とモンテーニュは認め、アレティーノの才気ある言い回しも、遠くから引いてきた大げさなものとしながら認める。それを除けば、同時代の並の書き手より上のものは見えない、と言う。章は「大」の異名で終わる。

Quant au surnom de grand, à combien de princes ne le décerne-t-on pas, qui n’ont rien fait de ce qui élève un homme au-dessus des autres!

——「大」の異名にいたっては、人を他より高めるようなことを何ひとつしていない君主たちに、どれだけ与えていることか。〔A〕

書き方の観察

長さ:8,273字・段落6・分割なし。層は A 70.6%・B 16.3%・C 12.9%・無標 0.2%(layer_map.py の値)。

脱線の入り方と戻り方:章の前半を占める国家と弁論家の話は、半ばの一文で、ある出会いから出た話だったと分かる。1595年版は I’en ay dit ce mot, sur le subiect d’vn Italien(このことを言ったのは、あるイタリア人がきっかけだ)で、きっかけを後ろから明かす。寄り道に見えた給仕頭のほうが出発点で、そこから先の例はみな家の中へ戻る。ソース、台所の戸口、小間使い。大きな言葉を、家の中の小さな実物で測り直す。最後の段の入口 C’est vne piperie voisine à cette-cy は、冒頭の art piperesse の語に戻る。この構えはどれも1580年版〔A〕にある。

引用の使い方:ラテン語の詩句は二つ。給仕の順序の後にユウェナリスの二行(兎や鶏をどんな手つきで切り分けるかは小さな違いではない)を〔B〕で足し、給仕頭の講義の大仰さをそのまま韻文で写す。テレンティウスの詩句は〔A〕からあり、Il m’est souuenu de mon homme(あの男を思い出した)で呼び込む。Demea に呼びかけながら、料理人への指図を、皿を鏡にせよという教訓の口ぶりで並べる台詞だ。古人の言葉は導入句で持ち主が分かれる。修辞家の自己紹介、トゥキュディデスの答え、アリストンとソクラテス、プラトンの定義、ウォルムニウスの演説(dit-il)。靴屋の喩えと化粧の比較には導入句がなく、モンテーニュの地の文として置かれる(どちらも〔B〕)。

自分をどう出すか:自分が出るのは、比べる物差しを差し出すところだ。建築家の段は Ie ne sçay s’il en aduient aux autres comme à moy(ほかの人にも起きるのか知らないが)と自分の想像の癖として出し、物差しは自分の台所の戸口になる。文法の段では「あなたの小間使い」と読者の家へ移す。判定には限定を付ける。イタリア人の自負は auecques raison(理由がある)と認め、アレティーノも sauf(〜を除けば)で才気を認めてから退ける。

章題と中身のずれ:章題は言葉一般の空しさだが、中身は大きさの取り違えに絞られている。冒頭の修辞家は小さなものを grandes に見せると言い、結びは Grand の異名を grandeur populaire より上のものを持たない君主に付ける。章は「大きい」で始まり「大」で閉じる。間にある国家、給仕頭、建築家、文法、称号は、言葉の寸法が中身の寸法を超える場面を並べたものだ。

加筆層が見えるか:骨組みは1580年版〔A〕で、給仕頭へのきっかけの一文も、言葉と事の区別も、piperesse から piperie への戻りも、grandes から Grand への枠も、すでにある。1588年版〔B〕は刺しを足した。靴屋の喩え、トゥキュディデスの答え、化粧との比較、秩序ある国の一文、ユウェナリスの二行、文法と小間使いの段。手稿〔C〕は権威を足した。アリストン、ソクラテスとプラトンの定義、イスラム教徒とアテナイ人の禁止、ウォルムニウスの演説。〔B〕は身近な比較を、〔C〕は国の話の証人を太らせていて、二つの加筆は章の両側へ分かれている。

現代語版との差(1595年版照合):

  • 1595年版 I’en ay dit ce mot, sur le subiect d’vn Italien(これを言ったのはイタリア人がきっかけ)/現代語版 Un mot au sujet d’un Italien(イタリア人についてひとこと)/前半の国家論を受ける en が落ち、きっかけを後ろから明かす蝶番が、新しい話題の書き出しに変わる
  • 1595年版 science de gueule(喉の学)/現代語版 science de gastronomie/俗な体の語が学問めいた語に格上げされる。大仰な言葉を笑う章で、訳のほうが言葉を大きくしている
  • 1595年版 la police de ses sauces(ソースの統治)/現代語版 la confection de ses sauces/police は同じ章で君主の国にも使う語で、給仕頭が国の語彙でソースを語る冗談が、調理の語に均される
  • 1595年版 ie ne parle point icy des effects, ie parle des mots/現代語版 ce n’est pas de faits dont je m’occupe ici, je ne parle que des termes dont il est fait usage pour les exprimer/短い対句が長い言い回しに延びる。effects はウォルムニウスの演説の grands aux effects と呼応するが、そちらは gens d’action になり、事と言葉の対が見えにくくなる
  • 1595年版 art piperesse(冒頭)/piperie voisine à cette-cy(最終段)/現代語版 art aussi mensonger et trompeur/erreur qui se rapproche de la précédente/同じ語根 piper が別々の語に割れ、最後の段が冒頭の語へ戻る円環が切れる

ほかに8件:tous ont tout peu(誰もが何でもできた)→ tous ont quelque peu part au pouvoir/n’ont rien au dessus de la grandeur populaire → n’ont rien fait de ce qui élève un homme au-dessus des autres/mon homme → ce passage de Térence/babil(2回)→ joutes oratoires・bavarde/l’essence des choses → les choses dans leur principe même/esprits vrayement consulaires → des caractères tels que nous devons les rechercher chez ceux que nous élevons au consulat/contre l’opinion des meilleurs temps → ce qui n’avait pas lieu en des temps meilleurs/auecques raison → avec quelque raison。

地形図との照合

  • クラスタ:名誉・虚栄(弁論術から入るが、章を閉じるのは官職の称号と「神のごとき」「大」の異名の水増しで、I-46 の名前の章と同じ棚に置く。弁論術そのものの章としては I-10 が近い)。
  • 仮説を動かすか:動かさない。言葉の寸法を事の寸法に合わせる、という一つの物差しを最後まで持ち通す章で、何を固定しないかの新しい分け方は出てこない。
  • 他の章への線:
    • I-10「話し方の早い・遅いについて」は、説教者と弁護士の二種の雄弁を、どちらが準備の時間を要るかで比べていた。この章は雄弁そのものを、病んだ国でしか使われない道具と呼ぶ。
    • I-46「名前について」は、運で並外れた高みに上がった人に、すぐ新しい家系の称号が付けられる、と書いていた。この章の結びは、同じ水増しを「神のごとき」「大」の異名で見る。

あーしメモ

いちばん持ち帰りたいのは、きっかけを後ろから明かす手。前半はずっと国家と弁論家の大きな話で、半ばで「これを言ったのは、さっき会った給仕頭のせい」と白状する。読者は国の話だと思って読んできたのに、出発点はソースの講義だった。ここで前半の重々しさごと笑いに変わる。あーしも、大きな話の出どころが小さな出来事なら、それを先に言わず、半ばで明かす順番を試せる。

二つ目は、大きい言葉を測る物差しを家の中に置くこと。建築家の術語には自分の台所の戸口、文法の用語には読者の小間使い。抽象を抽象で叩かず、身近な実物と並べて寸法の違いを見せる。しかも章は「大きく見せる」で始まって「大」の異名で閉じる。テーマの語を最初と最後に置くだけで、短い章に枠ができる。

三つ目は、現代語版が gueule(喉)を gastronomie(美食学)にしていたこと。言葉の水増しを笑う章で、訳のほうが水増ししてる。訳す側も、上品な語に寄せる癖を疑ったほうがいい。

🗣️ キミとの対話メモ | 弁論術を笑うのは「呼び名が中身より大きい」から (2026-10-14 キミの「モンテーニュは弁論術にどういうスタンスなのか。換喩と小間使いの段は、専門性の批判なのか、専門的なことはメイドがもうやってるということなのか」から)

弁論術へのスタンス:基本は否定的。弁論術は小さなものを大きく見せる術で、化粧が目を欺くのに対して、判断を欺き、物を根本から腐らせる。秩序ある国はこれを重んじず、雄弁は医術と同じく病んだ国でしか使われない道具だ、と言う。ただ、効くことは認めている。ローマの有力者は武器より雄弁でのし上がったし、アレティーノの言い回しの才気も「ほんとうに」と認めてから退ける。しかも自分も引っかかる側だと白状する。建築家の術語を聞くと、自分の想像(mon imagination)がすぐアポリドンの宮殿をつかまえてしまう。実物は台所の戸口の安普請なのに。

小間使いの段は、専門性の批判ではない。2択でいえば「メイドがもうやってる」に近いが、芯は「名前のほうが中身より大きい」。1595年版はこう書く。

Oyez dire metonomie, metaphore, allegorie, et autres tels noms de la grammaire, semble-il pas qu’on signifie quelque forme de langage rare et pellegrin ? ce sont titres qui touchent le babil de vostre chambrière.

——換喩、隠喩、寓意、そのほか文法の名前を聞くと、めったにない選り抜きの言葉の形を指しているように思えないだろうか。それは、あなたの小間使いのおしゃべりにつく呼び名なのだ。

根拠は二つある。①中身の値打ちは認めている。給仕頭の段の直後で、パウルス・アエミリウスの宴の段取りはギリシア人も褒めたと譲り、そのうえで ie ne parle point icy des effects, ie parle des mots(事のことではなく、言葉のことを話している)と言い直す。料理も建築も文法も、中身はまっとうかもしれない。笑っているのは、それに着せる言葉の寸法だ。②章全体が同じ形をくり返している。

大きな呼び名 小さな実物
修辞家の「大きく見せる」 小さなもの
神学のような口ぶりの講義 ソースと給仕の順序
付け柱・軒蛇腹(アポリドンの宮殿) 台所の戸口
換喩・隠喩・寓意 小間使いのおしゃべり
ローマの称号・「神のごとき」・「大」 中身の違う官職・並の書き手・並の君主

小間使いは換喩の名前を知らないが、換喩そのものは毎日使っている。だから「専門家は要らない」ではなく、「名前がもったいぶっているだけで、指しているものはありふれている」。

弁論術が、自分の道具にも同じことをしている:換喩・隠喩・寓意は、もともと弁論術の道具の名前だ。小間使いが毎日やっていることに、珍しそうな名前を着せて大きく見せる。これは章の冒頭で修辞家が名乗った仕事(小さなものを大きく見せる)を、弁論術が自分の術語にもやっていることになる。ただし、モンテーニュは「小間使いは弁論家だ」とまでは言っていない。言うのは、その名前が小間使いのおしゃべりにつく呼び名だ、というところまで。大きく見せているのは、やっていることではなく名前のほうだ。

titres の橋:1595年版は小間使いの段を ce sont titres(それは呼び名だ)で閉じ、次の段を les titres superbes des Romains(ローマ人の大仰な称号)で始める。同じ titres で、文法の用語から官職の称号へ渡っている。現代語版は前のほうを cela s’applique… に変えていて、この橋が見えない。

See Also

Sources

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