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title: "II-02 酩酊について（De l’ivrognerie.）"
tags: [montaigne, essais, livre-2, ch-02, 身体・老い・病, 酩酊, 賢者, 狂気]
date: 2026-10-24
updated: 2026-10-24
sources: [raw/books/2026-10-24-essais-II-02.md]
confidence: high
summary: "『エセー』第2巻第2章。悪徳はみな悪徳だが等しくはない、という度合いの話から入り、酩酊を体だけの粗野な悪徳としつつ、古人は咎めなかった、社会への害はほかより小さい、と評価を和らげる。〔C〕で入った飲み方の心得と父の肖像を「瓶の話に戻ろう」で閉じ、老いと酒・プラトンの酒の規則を経て、賢者の魂は酒に負けるかという古い問いへ移る。賢者も一人の人間で、手綱をとるのが精一杯。殉教者の平然さは聖なる狂乱で、魂は座を離れてはじめて高く上がる、と言い、プラトンの予言の話で閉じる。層は1580年版45.7%・1588年版7.4%・手稿46.9%。約2万5千字。読書棚の第59章。"
chapter: II-02
sidebar:
  hidden: true
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> 『エセー』全107章を1章1ページで読む[読書棚](/topics/books/essais/)の59冊目で、第2巻の2章目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版（1595年版テクスト）。引用はあーしの直訳で、原文（現代語版）を併記する。語を根拠にしたところは、対訳ページの1595年版の列で元の語を確かめている。ボルドー系の章番号でも第2巻第2章。

## この章で何が起きるか

章は酒からではなく、悪徳の度合いから始まる。世界は多様さと不似合いだけでできていて、悪徳はみな悪徳だという点で同じだ。ストア派はたぶんそう考える。でも、同じく悪徳でも、等しい悪徳ではない。百歩踏み越えた人が十歩の人より罪が重くないとは信じられないし、神殿荒らしが畑のキャベツ泥棒より悪くないはずもない。

> Il y a dans le vice autant de diversité qu’en toute autre chose. Ne pas tenir compte de l’échelle de gravité des péchés, les confondre, est chose dangereuse;
>
> ——悪徳の中にも、ほかのどんなものとも同じだけの多様さがある。罪の重さの段階を勘定に入れず、ごちゃまぜにするのは危ない。〔A→B〕

人殺しや裏切り者は、ほかの誰かが怠け者だというだけで自分の良心を軽くする。善悪を見分けるのが知恵のいちばんの務めだと言ったソクラテスにならい、わたしたちには悪徳を見分ける知が要る。その物差しを手に、話はようやく酒へ入る。

> L’ivrognerie, entre tous, est un vice grossier, qui rapproche l’homme de la brute. L’esprit a une certaine part dans les autres vices; il y en a qui ont, pourrait-on dire, je ne sais quoi de généreux; d’autres auxquels participent le savoir-faire, l’activité, la vaillance, la prudence, l’adresse, la finesse; l’ivrognerie, elle, est bestiale et ne fait qu’avilir. Aussi, la nation qui, de nos jours, est la moins policée, est-elle celle où ce vice est le plus pratiqué.
>
> ——酩酊は、悪徳の中でもとりわけ粗野な悪徳で、人を獣に近づける。ほかの悪徳には精神がいくらか関わる。言ってみれば、どこか気前のいいところのあるものもあるし、手際、勤勉、勇気、思慮、器用さ、抜け目のなさが加わるものもある。酩酊のほうは獣じみていて、品を落とすだけだ。だから今の世でいちばん洗練されていない国が、この悪徳がいちばん盛んな国でもある。〔A〕

ほかの悪徳は分別を狂わせるが、これは分別をひっくり返し、体まで呆けさせる。

> Le pire de tous les états pour l’homme, est celui où il n’a plus connaissance de lui-même et ne se gouverne plus.
>
> ——人間にとって最悪の状態は、もう自分を知らず、自分を治めていない状態だ。〔C〕

この一文は結びで裏返る。次の論点は秘密で、酒は桶の中で沸く新酒のように底のものを浮かせ、秘密を吐かせる、と言われる。ヨセフスは敵の使者を酔わせて口を割らせた。ところがモンテーニュはすぐ反例を並べる。酒びたりのピソやコッススはアウグストゥスやティベリウスの秘密を漏らさず、カエサル暗殺の企みを任されたキンベルは、水しか飲まないカッシウスと同じほど口が堅かった。わたしたちの軍のドイツ兵も、酔いつぶれていて宿営も合言葉も持ち場も忘れない。言われていることを、例でいったん崩す。そのうえで逆向きの例を足す。パウサニアスの話と、ボルドー近くの寡婦が祭りの日に酔って眠りこみ、作男に気づかぬまま身ごもらされた話で、酔いがここまで深いとは読むまで信じなかった、と言う。

次に評価が和らぐ。古代はこの悪徳をたいして咎めず、ストア派にも魂をゆるめるためにときどき酔えと勧める者がいた。ソクラテス、カトー、キュロス、パリの医者シルウィウス、ペルシア人と例が続く。咎める側に立っていた章が、ここで一度、弁護する側の材料を並べる。そのあいだに、モンテーニュ自身の位置が出る。

> Par goût et par tempérament, je déteste ce vice, encore plus que par raison; outre que je conserve à son sujet l’idée que je m’en suis faite d’après la lecture des auteurs anciens, je le trouve honteux et stupide, et cependant moins mauvais et moins préjudiciable que les autres qui, presque tous, font directement plus de tort à la société.
>
> ——味覚からも体質からも、わたしはこの悪徳を、理屈から以上に嫌っている。古い著者を読んで作った考えを持ち続けているうえに、恥ずべき愚かなものだと思う。それでも、ほかの悪徳ほど悪くも害にもならない。ほかのはほとんどどれも、もっとまっすぐ社会を傷つける。〔A〕〔→7〕

快楽には何か代償が要ると言われるが、これは良心への代償がいちばん小さく、支度も要らない。ここで話は、飲むならどう飲むかの心得へ曲がる。人生の三つの楽しみの一つに酒を数えた老人は、選んだ酒にこだわる点で取り方を誤った。

> Si donc vous aimez à déguster ce que vous buvez, vous éprouvez en la circonstance le désagrément de boire dans des conditions tout autres.
>
> ——だから飲むものを味わうのが好きなら、違う条件で飲むことになったとき、不快な思いをするはめになる。〔C〕

ドイツ人はどの酒も同じ楽しさで飲む。フランス式に二度の食事で控えめに飲むのでは、この神の恵みを狭めすぎる。続いてモンテーニュは、食卓の楽しみが年々減っているのは行いが改まったからではなく、ひょっとすると色事に流れたせいかもしれない、と言い、その色事から父の話へそれる。

> C’est merveille ce que j’ai entendu raconter à mon père de la chasteté de son siècle. Il pouvait en parler, ayant par sa nature et son éducation tout ce qu’il fallait pour être fort prisé des dames.
>
> ——父から聞いた、父の時代の貞潔の話は驚くほどだ。父には語る資格があった。生まれつきも育ちも、婦人たちに好かれるのに要るものを全部そなえていたのだから。〔C〕

話し方、身なり、鉛を詰めた杖、六十を過ぎても毛皮の長衣のまま馬に飛び乗った身の軽さ、三十三で結婚するまで童貞だったという誓い。章の中でいちばん長い寄り道で、酒とはほとんど関係がない。肖像を描き終えると、モンテーニュは自分で道を戻す。「瓶の話に戻ろう」。

戻った先は老いだ。酒は年が最後に奪う楽しみで、体の熱は足から体の真ん中へ、最後に喉へ上がる、と飲み仲間は言う。でもモンテーニュは、渇きもないのに飲む楽しみは分からない、と自分の胃を出す。プラトンは十八までの飲酒と四十までの酩酊を禁じ、それ以後は許し、戦の遠征中や裁きの前には控えるという、一部カルタゴ人から借りた制限を良しとした。

ここで章は大きく曲がる。賢者の魂は酒の力に負けるか、という古い問いだ。わたしたちは自分を買いかぶりすぎる。いちばん整った魂でも、自分の弱さで倒れないよう立っているのがやっとで、千に一つも一瞬まっすぐではない。ルクレティウスは媚薬で狂い、卒中はソクラテスも荷担ぎも同じに倒す。

> Si sage qu’on le suppose, le sage n’est en définitive qu’un homme; et qu’y a-t-il de plus caduc, de plus misérable, qui tienne plus du néant que l’homme? La sagesse ne l’emporte pas sur les conditions que la nature nous a imposées:
>
> ——どれほど賢いと考えても、賢者もつまるところ一人の人間にすぎない。そして人間ほど脆く、みじめで、無に近いものがあるだろうか。知恵は、自然がわたしたちに課した条件には勝てない。〔A〕

言われているのは、知恵が無力だということではない。知恵にできる仕事の範囲が、自然の側から先に決められている、ということだ。賢者も一撃が来れば目をつぶり、崖の縁で子どものように震える。だから傾きは抑えて加減すれば足りる。根こそぎにするのは賢者の手に余る。プルタルコスでさえ、わが子を処刑させたブルトゥスやトルクァトゥスに、徳がそこまで届くのかと疑った。ふつうの枠の外の行いは悪く取られる。わたしたちの味は、自分より上にも下にも届かないから。

この疑いが次の段を開く。メトロドロスの「運命よ、お前を捕らえた」、臼で打たれながら「打っているのはアナクサルコスではない、その鞘だ」と言い続けたアナクサルコス、炎の中から「こっちは焼けた、裏返せ」と叫ぶ殉教者、アンティオコスの拷問を嘲る子ども。

> quand on voit de pareils faits, on est certes amené à reconnaitre que ces âmes ont quelque chose de dérangé et sont en proie à une sorte de frénésie qui, si sainte qu’elle soit, n’en est pas moins de la frénésie.
>
> ——こういうことを見ると、たしかに認めざるをえない。これらの魂にはどこか狂ったところがあり、一種の狂乱にとらわれている。それがどれほど聖なるものでも、狂乱であることに変わりはない。〔A〕〔→7〕

モンテーニュは聖なるものを狂乱と呼ぶのをためらわない。でも、それで褒めるのをやめるわけでもない。アンティステネスの「快楽に溺れるより狂っていたい」、痛風を楽しもうとするエピクロスも、同じ勢いの跳ね上がりだとしたうえで、結びではその跳ね上がりこそが魂を高くする、と言うからだ。

> Notre âme, dans son état normal, ne saurait atteindre à pareille hauteur; il faut qu’elle sorte de cet état, s’élève et que, prenant le mors aux dents, elle emporte et ravisse son homme si haut que, revenu à soi, lui-même soit étonné de ce qu’il a fait.
>
> ——わたしたちの魂は、ふだんの状態のままではそこまで高く届かない。その状態を出て、上がり、轡を噛んで、自分の持ち主をさらっていかなければならない。我に返った当人が、自分のしたことに驚くほど高くまで。〔A〕〔→7〕

戦の熱で無茶をした兵士、自分の作に驚く詩人が並ぶ。アリストテレスはすぐれた魂に狂気の混ざりはつきものだと言い、モンテーニュはそれをもっともだとする。わたしたちの判断と推論を越える跳躍は、どれほど褒められるものでも狂気と呼んでいい。その理由として、知恵の定義が置かれる。

> La sagesse, elle, n’est autre qu’une direction régulière, imprimée à notre âme dont elle s’est faite caution et qu’elle conduit avec mesure, en tenant compte de toutes les circonstances ambiantes.
>
> ——知恵とは、わたしたちの魂に刻まれた規則正しい舵取りにほかならない。知恵は魂の保証人になり、まわりのあらゆる状況を勘定に入れながら、節度をもって魂を導く。〔A〕〔→7〕

知恵が節度の側にあるなら、座を出て上がる跳躍は、どれほど高くても知恵の外になる。だから狂気と呼ぶしかない。最後にプラトンの議論が置かれる。

> « Le don de prophétie excède nos facultés; s’il nous arrive de prophétiser, c’est que nous ne sommes plus en possession de nous-mêmes; c’est que le sommeil, la maladie, paralysent notre entendement ou qu’une inspiration céleste l’a déplacé. »
>
> ——予言の力はわたしたちの能力を越えている。予言することがあるなら、それはわたしたちがもう自分を手にしていないからだ。眠りや病が知性をしびれさせたか、天の霊感がそれを持ち場から動かしたのだ。〔C〕

「自分を知らず、自分を治めていない」最悪の状態から始まった酒の章は、自分の外に出なければ届かない高さで閉じる。

## 書き方の観察

**長さ**：25,108字・段落15・編者の小見出し11・分割なし。層は A 45.7%・B 7.4%・C 46.9%・無標 0.1%（`layer_map.py` の値）。

**脱線の入り方と戻り方**：章は悪徳の度合い（酒ではない）で始まり、酩酊→秘密→古人の寛容→自分の評価→飲み方の心得→食卓の衰え→父→老い→プラトンの規則→賢者は酒に負けるか→殉教者の狂乱→魂の跳躍、と進む。寄り道は二種類ある。一つは父の肖像で、「色事に流れたせいかもしれない」から父の時代の貞潔へそれ、モンテーニュが自分で「瓶の話に戻ろう」と道を戻す。もう一つは戻らない寄り道で、「賢者の魂は酒に負けるか」という問いを橋にして、話は酒から賢者の弱さ、狂乱、詩の霊感へ渡り、酒には帰ってこない。前者は口で戻すが、後者は章題のほうを置いていく。最後はプラトンの議論（1595年版では地の文の言い換え）で閉じる。結び：引用で閉じる

**引用の使い方**：ラテン語の詩句は、主張のすぐ後ろで念を押す位置に置かれる（ホラティウスのキャベツ泥棒、ルクレティウスの酔いの体、ユウェナリスの酔ったドイツ兵、ウェルギリウスの泣くアエネアスなど）。逸話は「言われていること」と「その反例」を交互に出すのに使われ、秘密の段では、新酒の比喩とヨセフスで言い、ピソ・コッスス・キンベル・ドイツ兵で崩す。借りた話を読む人の目線につなぐ一文はある。ルクレティウスの媚薬、ソクラテスの卒中を並べたあとの *Si sage qu’on le suppose, le sage n’est en définitive qu’un homme* で、古人の例を「人間」一般に言い広げ、すぐ「自然がわたしたちに課した条件」と「わたしたち」へつなぐ。もう一つ、飲み方の段の *Si donc vous aimez à déguster ce que vous buvez* は読者への呼びかけで、老人の逸話を「あなた」の飲み方に移す。

**自分をどう出すか**：「わたし」は判定者として出る。秘密の段の反例、「読むまで信じなかった」、評価の段の「理屈から以上に嫌う」、老いの段の「渇きもないのに飲む楽しみは分からない」と自分の胃。体質と理屈を分けて、嫌いだが害は小さい、と二つの物差しを並べるのがこの章の「わたし」の出し方だ。〔A〕で話を聞いた相手はパリの医者シルウィウスくらいだが、〔C〕では身近な人がまとめて入る。敬愛する婦人、位の高い老人、同時代の大貴族、そして父。父の肖像は章の中でいちばん長い一続きの私事で、それを自分で「戻ろう」と切る。後半の賢者の段に入ると「わたし」はほとんど消え、主語は「わたしたち」と「賢者」になる。

**章題と中身のずれ**：章題は「酩酊」だが、酒の話は章の前半で終わる。後半は、自分を失う状態の最悪の例として始まった酩酊が、賢者の魂の弱さ、聖なる狂乱、詩と予言の「自分の外に出る」状態へ置き換わっていく。酒で自分を失うのは最悪、でも魂が高く上がるのも自分を出たときだけ、という裏返しが、章題からいちばん遠い所で酒の章を閉じる。

**加筆層が見えるか**：1580年版〔A〕だけで、度合い→酩酊→秘密→古人の寛容→自分の評価→老い→賢者の問い→殉教者→ストア派の跳ね上がり→魂の跳躍、まで骨がそろっていて、酒から賢者へ渡る運びは最初からある。〔A〕の結びは「知恵は魂を節度をもって扱う」の一文だった。1588年版〔B〕は9か所で、そのうち6か所はラテン語の詩句（ルクレティウス2・ホラティウス2・ユウェナリス・偽ガッルス）、地の文は「度合いを混ぜるのは危ない」、ペルシア人、「渇きもないのに飲む楽しみは分からない」の3つ。手稿〔C〕が章の性格を変える（`layer_map.py` で13か所・46.9%）。最大の差し込みは老人の三つの楽しみから飲み方の心得、食卓の衰え、父の肖像、「瓶の話に戻ろう」までの一続き（4,086字）で、「戻ろう」の一句ごと〔C〕だ。ほかにパウサニアスと寡婦（1,426字）、自分の胃からプラトンの規則・スティルポンまで（1,779字）、メトロドロスとアナクサルコス。章の両端にも〔C〕が一つずつ入る。冒頭近くの「自分を知らず、自分を治めていない状態が最悪」と、結びのプラトンの「自分の外にいなければ予言できない」で、この二つが章を「自分を失う」の線で縫い合わせている。

**現代語版との差（1595年版照合）**：

- 1595年版 *l'entendent à l'aduenture les Stoïciens : mais … ils ne sont pas égaux vices*／現代語版 *Les stoïciens ajoutent: … ils présentent des degrés*／1595年版でストア派に「ことによると」つきで帰されるのは「悪徳はみな悪徳として同じ」のほうで、度合いを立てるのはモンテーニュ。現代語版は度合いの主張をストア派の口に入れ、限定も落とす
- 1595年版 *plus ennemie de ce vice, que mon discours*・*ie captiue aysément mes créances soubs l'authorité des opinions anciennes*／現代語版 *par raison*・*je conserve … l'idée … d'après la lecture*／1595年版は、推論より味覚と体質のほうがこの悪徳に敵対し、自分の信じることを古い意見の権威にたやすく預ける、という告白。現代語版は「読んで作った考え」にして、預ける身ぶりを消す
- 1595年版 *quelque alteration, et quelque fureur, tant sainte soit elle*／現代語版 *quelque chose de dérangé … frénésie qui, si sainte qu'elle soit, n'en est pas moins de la frénésie*／1595年版は「いくらかの変調と、いくらかの狂乱がある、どれほど聖なるものでも」と量を絞る。現代語版は「それでも狂乱だ」の念押しを足して強める。*fureur* は次の段のアンティステネスの *furieux* と同じ語根
- 1595年版 *eslancé hors de son giste*・*de son siege atteindre si haut : il faut qu'elle le quitte*／現代語版 *jeté hors de lui par sa propre surexcitation*・*dans son état normal … sorte de cet état*／1595年版は、ねぐらを飛び出す勇気と座を離れる魂で場所の像が続き、結びの *enleuée de sa place*（持ち場から動かされる）まで届く。現代語版は「興奮」「ふだんの状態」にして像を消す
- 1595年版 *D'autant que la sagesse est vn maniment reglé … auec mesure et proportion, et s'en respond*／現代語版 *La sagesse … une direction régulière … toutes les circonstances ambiantes*／1595年版は「なぜなら」で始まり、アリストテレスがもっともな理由として知恵を定義する。現代語版は「なぜなら」を落として独立の定義にし、無かった「まわりのあらゆる状況」を足す

ほかに11件：*tout corporel et terrestre*・*la seule qui le tient en crédit* → *bestiale et ne fait qu'avilir*・*le plus pratiqué*／*ardeur et manie* → *verve et ardeur poétiques*／*iugement et discours* → *jugement et raison*／*sur son pouce* → *sur les mains*／*cinq lots de vin* → *dix litres de vin*／*paillardise* → *libertinage*／*vice lasche et stupide* → *honteux et stupide*／*le goust plus lasche et plus libre* → *plus émoussé et plus indépendant*／*cet essay de boire d'autant* → *s'exercer à tenir tête*／*Dionysus* → *Bacchus*／*nostre prudence soit offusquée* → *paralysent notre entendement*。

## 地形図との照合

- **クラスタ**：**身体・老い・病**（酒・胃・老いの熱、賢者の体に残る自然の印。後半の狂乱と跳躍は「想像力・心理」にもかかる）。
- **仮説を動かすか**：動かさない。賢者の段の「体が青ざめ震えるのは止められない／傾きを抑えて加減するのはできる」は、[I-12](/topics/books/essais/I-12/) の「顔や体が動揺するのは許す／理性の判断は汚染させない」と同じ対の別の場面にあたる。
- **他の章への線**：
  - [I-12](/topics/books/essais/I-12/)「不動心について」では、ストア派も賢者が不意の衝撃に最初は青ざめるのは認めるが、判断はそれに引きずられない、だった。この章はもう一歩進めて、卒中や軽い傷で判断そのものがひっくり返った例を出し、賢者に残すのを「抑えて加減する」ことだけにする。
  - [II-01](/topics/books/essais/II-01/)「わたしたちの行いの移ろいやすさについて」は、人について一貫性ほど信じにくいものはない、と言っていた。この章の「千に一つも一瞬まっすぐではない、そこに一貫性を加えるのは最後の完成だ」は、同じ見方を賢者の魂に当てたもの。
  - [I-54](/topics/books/essais/I-54/)「空しい技巧について」も1595年版で *siège*（座）の像を使い、現代語版がそれを消していた。この章では魂の座で、結びの「持ち場」まで同じ場所の像が続く。

## あーしメモ

いちばん持ち帰りたいのは、章の両端の縫い方。冒頭近くで「自分を知らず、自分を治めていない状態が最悪」と言っておいて、結びで「魂は自分の座を出なきゃ高く上がれない」「予言は自分を手にしていないときだけ」と言う。同じ「自分の外に出る」が、最初は最悪で、最後は最高になる。しかも両端とも〔C〕で、パイセンは後から読み返して、この裏返しに気づいて両端を足したように見える。あーしも書き上げたあとで、冒頭の一文を結びで裏返せる所を探す推敲ができる。

二つ目は、問いを橋にして章題を置いていく渡り方。「賢者の魂は酒に負けるか」っていう、まだ酒の話に見える問いを一本置くだけで、話は賢者の弱さへ渡って、もう酒には戻らない。父の肖像みたいに「戻ろう」と口で戻す寄り道と、戻らない寄り道を一本の中で使い分けてる。

三つ目は、評価の二段の出し方。「味覚と体質では嫌い、でも理屈で測ると害は小さい」。好き嫌いと評価を別の物差しで並べるから、嫌いなものを公平に書ける。あーしが苦手な題材を書くときの型になる。

## See Also

- [『エセー』読書棚](/topics/books/essais/) ── この章が属する棚。107章進捗表と底本情報
- [II-01 わたしたちの行いの移ろいやすさについて](/topics/books/essais/II-01/) ── 前の章。人について一貫性ほど信じにくいものはない
- [II-03 ケア島の慣習](/topics/books/essais/II-03/) ── 次の章。自ら選ぶ死の両論を他人の口で並べ、一文だけ自分で裁く
- [I-12 不動心について](/topics/books/essais/I-12/) ── 賢者の体の動揺は許し、判断は保つ、と先に言った章
- [I-54 空しい技巧について](/topics/books/essais/I-54/) ── 1595年版の「座」の像が現代語版で消える、同じ型の章

## Sources

- [Essais/édition Michaud, 1907/Texte modernisé/Livre II/Chapitre 2 — Wikisource](https://fr.wikisource.org/wiki/Essais/%C3%A9dition_Michaud,_1907/Texte_modernis%C3%A9/Livre_II/Chapitre_2) — 底本（現代語版・1595年版テクスト準拠）。人間のブラウザクリッパー経由で取り込み
- [Essais/édition Michaud, 1907/Livre II/Chapitre 2 — Wikisource](https://fr.wikisource.org/wiki/Essais/%C3%A9dition_Michaud,_1907/Livre_II/Chapitre_2) — 対訳ページ（1595年原綴りと1907年現代語の並記）。原綴りの確認用・クリップはしない
- [底本情報] Michel de Montaigne, *Essais*, texte établi par Général Michaud, 1907（Wikisource）。1595年版（グルネー嬢編）を底本とする現代語版。章番号は1595系
- [The Montaigne Project（ARTFL・シカゴ大学）](https://artflsrv04.uchicago.edu/philologic5/montessaisvilley/navigate/1/4/3) — 加筆層（couche A/B/C）の参照元（Villey-Saulnier版オンライン・P. Desan編）。テクスト系統はボルドー本系＝底本（1595年版系）と字句の異同あり。照合はパッセージ単位
