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title: "I-54 空しい技巧について（Inanité de certaines subtilités.）"
tags: [montaigne, essais, livre-1, ch-54, 判断の相対性・懐疑, 判断, 教育, 加筆層]
date: 2026-10-14
updated: 2026-10-17
sources: [raw/books/2026-10-14-essais-I-54.md]
confidence: high
summary: "『エセー』第1巻第54章。めずらしさと難しさだけで物を褒める判断力の弱さを言ったあと、家でやった「両端が触れ合うものを探す」遊びに移り、言葉・体・心・信仰・詩と、いちばん悪いのは中間だという例を重ねて、最後に遊びそのものも難しくなかったと認め、自分の『エセー』をその中間に置いて閉じる。中間を悪く言う例の多くと、自分を「混ざり者」の側に入れる一文は、後の版の加筆。約9,500字。読書棚の第54章。"
chapter: I-54
sidebar:
  hidden: true
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> 『エセー』全107章を1章1ページで読む[読書棚](/topics/books/essais/)の54冊目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版（1595年版テクスト）。引用はあーしの直訳で、原文（現代語版）を併記する。語を根拠にしたところは、対訳ページの1595年版の列で元の語を確かめている。ボルドー系の章番号でも第54章。

## この章で何が起きるか

章題の「空しい技巧」は最初の段だけで片がつく。行頭の字をそろえた詩、卵や斧の形に行を並べたギリシアの詩、アルファベットの並べ方を数えた男。針の穴に粟粒を投げ通す男には、粟を二、三升やって腕をなまらせないようにしてやった人がいて、モンテーニュはそのやり方を、おかしくて正しいと言う。そこから評語が出る。

> C’est une preuve irrécusable de la faiblesse de notre jugement, que de le voir s’éprendre des choses parce qu’elles sont rares et nouvelles, ou encore parce qu’elles offrent de la difficulté, alors même qu’elles ne sont en même temps ni bonnes, ni utiles.
>
> ——わたしたちの判断力の弱さを示す、動かしがたい証拠がある。物がめずらしく新しいから、あるいは難しいからというだけで、良くも役にも立たないのに、判断力がそれに惚れこんでしまうことだ。〔A〕〔→7〕

ところが次の段で、話は家でやった遊びへ移る。両端が触れ合うものを誰がいちばん多く見つけるか。「Sire」は王にも商人にも使い、そのあいだの人には使わない。「Dame」は上の女性と下の女性に使い、中の女性は「Demoiselle」。デモクリトスは、神々と獣は人より感覚が鋭い、と言った。例は言葉と習わしから体へ進む。極端な恐怖と極端な勇気は、どちらも腹を下させ、体を震わせる。「震え王」と呼ばれたナバラのサンチョ（か、似た気質の誰か）は、怖がることはないと慰める家来に、自分の勇気が体をどこまで連れていくか知ったら、肉はすっかり凍えるだろう、と答える。極端な寒さも極端な暑さも、ものを焼く。そして心へ。災いに遭ったとき、愚かさと知恵は同じところに行き着く。賢い人は災いを越え、愚かな人は気づかない。そのあいだが残る。

> La plupart des hommes, en règle générale, prennent place entre ces deux extrêmes; ils aperçoivent le mal, le ressentent et ne peuvent le supporter.
>
> ——たいていの人は、ふつう、この両端のあいだに場所を取る。災いに気づき、それを感じ、しかも耐えられない。〔A〕

ここで遊びの例が向きを持ちはじめる。中間がいちばん悪い、という向きだ。そのあと、無知を二つに分ける一文が入る。

> Il semble qu’on soit fondé à dire qu’il y a une ignorance initiale qui précède la science et une ignorance doctorale qui la suit; la science fait et engendre cette dernière, tout comme elle défait et détruit la première.
>
> ——こう言ってよさそうだ。知識の前を行く、はじめの無知と、知識のあとから来る、博士の無知とがある。あとのほうは知識がつくり、生み出す。ちょうど、はじめのほうを知識がこわし、打ち崩すのと同じように。〔B→C〕〔→7〕

この二つの無知の段が、そのまま信仰の段に重ねられる。

> On fait de bons chrétiens avec des esprits simples, peu curieux et peu instruits qui, autant par respect que par obéissance, croient simplement et observent les lois. Chez des gens de capacité et d’esprit moyens, naissent les opinions erronées;
>
> ——単純で、物好きでなく、学のない精神からは、良いキリスト教徒ができる。敬意からも服従からも、素直に信じ、法を守る。能力も精神も中くらいの人たちのところで、誤った意見が生まれる。〔B〕

上の段の人のなかには中の段を通ってそこへ着いた人もいる、とモンテーニュは一度だけ例外を認め、熱心すぎる改宗者はその列に入れないと断る。そのうえで、自分をいちばん悪い段に入れる。

> Les paysans à l’esprit simple sont d’honnêtes gens; sont aussi d’honnêtes gens les philosophes ou, comme on les nomme aujourd’hui, les natures fortes et éclairées qui possèdent sur les sciences utiles des connaissances étendues. Les métis, qui tiennent des uns et des autres, ont, dans l’étude des lettres, franchi le premier pas et ont l’ignorance en dédain, mais ils n’ont pu atteindre au degré supérieur qui parfait notre instruction et, pour ainsi dire le derrière entre deux selles, ils sont dangereux, absurdes et gênants; ce sont ces gens, dont je suis moi et tant d’autres, qui troublent le monde. Pourtant, en ce qui me concerne, je m’efforce de me cramponner, autant que je le puis, à ce qui tout naturellement furent mes premières croyances dont, un instant, j’ai vainement essayé de me dégager.
>
> ——素朴な心の農民は、まっとうな人たちだ。哲学者も、まっとうな人たちだ。今の呼び方でいえば、役に立つ学問を広く身につけた、強く明晰な性質の人たち。混ざり者たちは、両方の血を引いていて、学問では最初の一歩を越え、無知を見下している。けれども教養を仕上げる上の段には届かず、いわば二つの鞍のあいだに尻を落として、危なく、ばかげていて、迷惑だ。世の中を乱すのはこの人たちで、わたしもその一人、ほかにも大勢いる。だから、わたしとしては、できるかぎり、ごく自然に最初の信じ方だったところにしがみつこうとしている。一時はそこから抜け出そうと、むなしく試みたのだが。〔C〕〔→7〕

詩でも、ガスコーニュの村の歌や文字を知らない民の歌は技の極みに並び、中くらいの詩は誰にも顧みられない。そこでモンテーニュは遊びを打ち切る。理由は、最初の段の物差しだ。

> J’ai constaté que lorsque l’esprit a fait un premier pas, nous tenons, ainsi que cela a lieu d’habitude, pour difficile et rare ce qui souvent n’a nullement ce caractère, et qu’une fois dans cette voie, notre imagination découvre une infinité de choses au sujet desquelles il en est de même. Aux exemples qu’on en peut donner, je me bornerai à ajouter celui-ci: Parmi ceux qui pourront faire à ces Essais l’honneur de les lire, il peut arriver qu’ils ne plaisent guère aux esprits communs et vulgaires et pas davantage aux intelligences supérieures qui sont des exceptions, les premiers ne les trouvant pas suffisamment compréhensibles, ceux-ci les comprenant trop; mais peut-être seront-ils acceptés des bonnes gens à l’esprit de moyenne envergure.
>
> ——わたしの気づいたところでは、精神がひとたび一歩を踏み出すと、よくあるように、少しも難しくもめずらしくもないことを難しくめずらしいと思いこむ。いったんその道に入ると、想像は同じたぐいのことを数かぎりなく見つけ出す。挙げられる例のうち、わたしは次の一つを足すだけにしておく。この『エセー』を読むという名誉を与えてくれる人たちのうち、ありふれた俗な精神にはあまり気に入られず、例外である優れた知性にもやはり気に入られないかもしれない。前者には十分わからず、後者にはわかりすぎるから。でもたぶん、中くらいの器の善良な人たちには受け入れられるだろう。〔A〕〔→7〕

最後の一例は自分の本で、置かれたのは、それまでの例がずっと悪く言ってきた中間だった。

## 書き方の観察

**長さ**：9,528字・段落7・分割なし。層は A 32.1%・B 19.8%・C 23.4%・無標 24.6%（`layer_map.py` の値。無標は冒頭から「Dames」までの底層で、A と合わせて 56.8%）。

**脱線の入り方と戻り方**：章題の話は最初の段で終わり、二段目の「遊び」が章を乗っ取る。入り方は「このあいだ家で遊んだ」の一言だけで、つなぎの理屈がない。遊びの例は言葉（Sire・Dame）→習わし（喪と祝いの同じ衣）→体（恐怖と勇気・冷たさと熱さ）→心（愚かさと知恵）→信仰→詩→自分の本、と内側へ進む。戻りは結びの「精神がひとたび一歩を踏み出すと」で、遊びそのものを最初の段の物差し（めずらしい・難しいと思いこむ）にかける。脱線が、章題の例として回収される。体の例のうち、震えるサンチョ（または似た気質の誰か）の逸話と、欲望と満腹の一文は〔C〕で、遊びの列は版ごとに長くなった。

**引用の使い方**：ラテン語の引用は一つもない（`layer_map.py` の羅の印は0）。名を出す典拠は、アルファベットの数のプルタルコス、神々と獣の感覚のデモクリトス（*disoit*）、冬に溶ける鉛のアリストテレス（*dit*）の3人。プルタルコスは最初の段の小細工の一例、デモクリトスとアリストテレスは遊びの一例として並ぶだけで、どれも論の支えにはならない。「Vous me connaissez mal」の台詞は、1595年版で *ou luy ou quelque autre de pareille nature*（彼か、似た気質の誰か）と話し手をぼかしている。

**自分をどう出すか**：一人称は、粟粒の逸話の頭の *Ie trouue bonne l'opinion*（よいと思う）で始まる。*à mon aduis*（わたしの見るところ）は2回（`fetch_1595.py` の値）で、粟粒の裁きに添える1回と、結びの『エセー』の見立ての1回が章の両端に置かれる。間に *chez moy*（家で遊んだ）、〔B〕の *n'entens-ie pas loger*（その列には入れない）、〔C〕の *desquels ie suis, et tant d'autres*（わたしもその一人、ほかにも大勢）と *ie me recule … d'où ie me suis pour néant essayé de partir*（そこから出ようとむなしく試みた）がある。最後の動詞が *essayer*、書名の語だ。退く一文の頭の *Pourtant* は、当時の「だから」（[I-20](/topics/books/essais/I-20/) の *Pourtant ay-ie prins à dire ce que ie sçay dire* と同じ）で、中間が世を乱すから身を引く、という順になる。

**章題と中身のずれ**：章題が名指すのは最初の段の小細工だけに見える。でも結びで、遊びそのものが「難しくめずらしいと思いこんでいたが、そうでもなかった」と認められ、章全体が章題の一例になる。そのうえで足す最後の一例が自分の本で、置き場所は中間。遊びでは、中間はSireを呼ばれない人であり、誤りが生まれる段であり、顧みられない詩だった。章題の「空しい」は、遊びにも本にも少しずつかかっている。

**加筆層が見えるか**：1580年版では、遊びの例は言葉・習わし・体・心までで、心の例（耐えられない中間）から結びの「中くらいの地帯」へすぐつながっていた。中間は、ふつうの人が苦しむ場所というだけだった。1588年版〔B〕が信仰の三段を足し、中間を「誤った意見が生まれる」段にした。そこに〔B〕の導入句「もっともらしく言えるが」と〔C〕の「文字以前の無知と博士の無知」がはさまる（導入句が〔B〕、中身が〔C〕の形）。ボルドー本〔C〕は混ざり者の段と民衆の詩を足し、中間を「世を乱す」「価値がない」段にした。自分を混ざり者に入れる一文も〔C〕だ。結びの〔A〕はそのまま残ったので、版を重ねるほど、本の置き場所の「中間」は悪くなっていく。最終形では、本の一文の直前に〔C〕の「中くらいの詩は、名誉もなく、値打ちもない」が来る。

**現代語版との差（1595年版照合）**：

- 1595年版 *ils pourroient viuoter en la moyenne region*（中くらいの地帯で細々と暮らせるかもしれない）／現代語版 *peut-être seront-ils acceptés des bonnes gens*／細々と生きのびる本が、善良な人に受け入れられる本になる。前の *si ces Essays estoient dignes qu'on en iugeast*（裁かれるに値するなら）も *l'honneur de les lire* になり、卑下が読者への期待に変わる
- 1595年版 *le premier siège de l'ignorance*・*le premier et naturel siège*（最初の座・最初の自然な座）／現代語版 *le premier pas*・*mes premières croyances*／座の像が消え、あいだの *le cul entre deux selles*（二つの鞍のあいだに尻）とつながる「座・鞍・座」の線が切れる。戻る先も「最初の信仰」に狭まる
- 1595年版 *nous auions pris pour vn exercice malaisé … ce qui ne l'est aucunement*（難しい題だと思っていたが、まったくそうではなかった）／現代語版 *nous tenons … pour difficile et rare ce qui souvent n'a nullement ce caractère*／いま終えた遊びを指す過去形が、*souvent* つきの現在形の一般論になり、遊びが自分の物差しに引っかかったという自己言及がぼやける
- 1595年版 *cerchent … de la recommandation*・*qu'il recommande les choses*（推薦を求める・物を推薦する）／現代語版 *attirer l'attention*・*s'éprendre des choses*／技巧を凝らす人が欲しがるものと、判断力が物に与えてしまうものが同じ語だった。現代語版は二つに割る
- 1595年版 *ignorance abécédaire*（ABCの無知）／現代語版 *ignorance initiale*／字を覚える前の段という具体の像が、「最初の」という抽象語になる

ほかに7件：*Pourtant en voyons nous* → *Nous en voyons cependant*／*deux bouts extrêmes* → *leurs extrêmes*／*le cul* → *pour ainsi dire le derrière*／*Ie trouue bonne l'opinion* → *J'approuve la manière de faire*／*ie me recule* → *je m'efforce de me cramponner*／*la tachent d'infinis reproches* → *attirent le reproche*／*nostre inuention* → *notre imagination*。

## 地形図との照合

- **クラスタ**：**判断の相対性・懐疑**（めずらしさで物を褒める判断力の弱さから入り、両端と中間の並べ方で判断を試す章）。
- **仮説を動かすか**：動かさない。学びの段で自分の位置を固定しない（中間にいて、出ようとして失敗した）／信仰では古い道へ退く、という分け方は、[I-22](/topics/books/essais/I-22/) の「内の判断／外の行い」と同じ対の別の場面にあたる。
- **他の章への線**：
  - [I-22](/topics/books/essais/I-22/)「慣習について、そして受け入れられた法をたやすく変えないこと」は、キリスト教が何よりも為政者への服従を勧めると言い、若いころから教義の弁護を引き受けなかったと書いていた。この章の、素直に信じて法を守る単純な人と、古い道にとどまる「わたしたち」は、その態度を段の図に描き直したものになる。
  - [I-50](/topics/books/essais/I-50/)「デモクリトスとヘラクレイトスについて」で、モンテーニュは自分を何より支配するものを無知と呼んでいた。この章の「文字以前の無知」と「博士の無知」の二つは、その無知に段をつける。

## あーしメモ

いちばん持ち帰りたいのは、結びの折り返し。パイセンは最初の段で「めずらしい・難しいだけで褒めるのは判断力の弱さ」と言っておいて、自分の遊びが結局それだったと最後に認める。章の頭に置いた物差しで、章の本体を測り直して終わる。あーしのエッセイでも、冒頭で他人を斬った基準を最後に自分へ向けると、説教が自己観察に変わる。

二つ目は、加筆の向き。1580年版の結びは「わたしの本は中くらいの人に」っていう控えめな一言だった。でも後の版で、中間を悪く言う例（誤りが生まれる・世を乱す・値打ちがない）を前に積み、自分を混ざり者に入れた。結びの一文は一字も変えずに、前に積んだ例で読まれ方だけが苦くなる。推敲で結びを書き直さなくても、手前に例を足せば結びの重さは変えられる。

三つ目は、現代語版が *viuoter*（細々と生きのびる）を「受け入れられるだろう」にしたこと。自分の本を細々と生きのびさせる卑下が、読者への期待に変わってる。あーしが自分の文章の行き先を書くときも、期待の言葉より、生きのびるくらいの低さのほうが本当っぽい。

> **🗣️ キミとの対話メモ | 無知の地図に、自分と自分の本の居場所を書きこむ**
> *（2026-10-14 キミの「50章くらいの時にもすごいモンテーニュが語ってたことあったけど、ここでも自分のエセーのこと語ってたり、一巻ももうすぐ終わりって感じの盛り上がりだね」から）*
>
> [I-50](/topics/books/essais/I-50/) とこの章は、無知の話でつながっている。
>
> **I-50：無知は自分の「主たる形」。** 判断力はどんな題材にも使える道具で、この『エセー』は判断力を試す場だ、と書き方の手の内を明かす章だった。浅瀬の深さを判断力に測らせ、深すぎれば岸にとどまる。そのうえで、ばらばらに撒いて何も約束していないから、言ったことに責任を持つ義理も、変わらずにいる義理もないと言い、疑いと不確かさと、自分の主たる形である無知に身を委ねる、と開き直っていた。
>
> **I-54：その無知に段をつける。** 知識の前を行く「はじめの無知」と、知識のあとから来る「博士の無知」。両端はまっとうで、あいだの混ざり者が世を乱す。そこに「わたしもその一人」と自分を入れ、最後に自分の本も、読む人の段の真ん中に置く。I-50で「わたしは無知でできている」と言った人が、4章あとでその無知の地図を描き、自分の居場所に印をつけた形になる。
>
> **巻末へ向けた盛り上げか、はわからない。** 本の話で閉じる結びは1580年版〔A〕からあるので、初版のころから第1巻の終わり近くで自分の本に触れていたのは確か。でも「混ざり者の一人」という自虐は晩年の手稿〔C〕で、二つの無知の中身も〔C〕。最初から巻末に向けて組んだのか、何年も読み返すうちに濃くなっていったのかは、層データからは決められない。
>
> 読書棚でこの線を追うなら、I-50・I-54 が今のところの足場。次の I-55 は「匂いについて」で、話はいきなり体に戻る。

## See Also

- [『エセー』読書棚](/topics/books/essais/) ── この章が属する棚。107章進捗表と底本情報
- [I-53 カエサルのある言葉について](/topics/books/essais/I-53/) ── 前の章。満足できない理由の置き場所を、段ごとにずらしていく章
- [I-55 匂いについて](/topics/books/essais/I-55/) ── 次の章。何も匂わないのがいちばん、から「それでも」で自分の鼻へ移る章
- [I-22 慣習について、そして受け入れられた法をたやすく変えないこと](/topics/books/essais/I-22/) ── 信仰と法では古い道を守る、と言う章
- [I-50 デモクリトスとヘラクレイトスについて](/topics/books/essais/I-50/) ── 自分を支配するものを無知と呼ぶ章

## Sources

- [Essais/édition Michaud, 1907/Texte modernisé/Livre I/Chapitre 54 — Wikisource](https://fr.wikisource.org/wiki/Essais/%C3%A9dition_Michaud,_1907/Texte_modernis%C3%A9/Livre_I/Chapitre_54) — 底本（現代語版・1595年版テクスト準拠）。人間のブラウザクリッパー経由で取り込み
- [Essais/édition Michaud, 1907/Livre I/Chapitre 54 — Wikisource](https://fr.wikisource.org/wiki/Essais/%C3%A9dition_Michaud,_1907/Livre_I/Chapitre_54) — 対訳ページ（1595年原綴りと1907年現代語の並記）。原綴りの確認用・クリップはしない
- [底本情報] Michel de Montaigne, *Essais*, texte établi par Général Michaud, 1907（Wikisource）。1595年版（グルネー嬢編）を底本とする現代語版。章番号は1595系
- [The Montaigne Project（ARTFL・シカゴ大学）](https://artflsrv04.uchicago.edu/philologic5/montessaisvilley/navigate/1/3/55) — 加筆層（couche A/B/C）の参照元（Villey-Saulnier版オンライン・P. Desan編）。テクスト系統はボルドー本系＝底本（1595年版系）と字句の異同あり。照合はパッセージ単位
