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title: "I-53 カエサルのある言葉について（À propos d’une phrase de César.）"
tags: [montaigne, essais, livre-1, ch-53, 想像力・心理, 欲望, 不完全さ, 加筆層]
date: 2026-10-14
updated: 2026-10-16
sources: [raw/books/2026-10-14-essais-I-53.md]
confidence: high
summary: "『エセー』第1巻第53章。自分を調べれば、何にも満足を据えられず、欲望と想像のせいで要るものを選べない不完全さがわかる、と問いの形で言い、足りないのは物ではなくわたしたちのつかみ方だと打ち消して、章題のカエサルの一文（見えないもの・知らないものを、いっそう頼みにし、いっそう怯える）で閉じる。1580年版は散文とカエサルだけの章で、1588年版〔B〕がルクレティウスの詩句2つを段の終わりに足した。約2,500字。読書棚の第53章。"
chapter: I-53
sidebar:
  hidden: true
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> 『エセー』全107章を1章1ページで読む[読書棚](/topics/books/essais/)の53冊目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版（1595年版テクスト）。引用はあーしの直訳で、原文（現代語版）を併記する。語を根拠にしたところは、対訳ページの1595年版の列で元の語を確かめている。ボルドー系の章番号でも第53章。

## この章で何が起きるか

章は、自分を調べてみればすぐわかる、という条件文から入る。

> Si quelquefois nous nous amusions à nous considérer, et que le temps que nous employons à observer autrui et à nous enquérir de choses qui ne nous regardent pas, nous le consacrions à nous examiner à fond, nous comprendrions vite combien présentent peu de solidité et laissent à désirer les pièces et morceaux dont nous sommes faits.
>
> ——もしわたしたちが、ときには自分を眺めて楽しんでみて、他人を観察したり、自分に関わりのないことを詮索したりするのに使っている時間を、自分を底まで調べることに充てたなら、わたしたちを形づくっている切れ端やかけらが、どれほど頼りなく、どれほど物足りないものか、すぐに思い知るだろう。〔A〕〔→7〕

そのすぐあとで、芯を問いの形で言う。

> N’est-ce pas une preuve caractéristique d’imperfection que rien ne puisse nous donner complète satisfaction, et que, par le fait même de nos désirs et de notre imagination, nous soyons hors d’état de choisir ce qui nous convient?
>
> ——何ひとつわたしたちに満ち足りた満足を与えられず、欲望と想像そのもののせいで、自分に合うものを選べないこと。これは不完全さのきわだった証しではないか。〔A〕〔→7〕

証拠に挙がるのは、最高善をめぐって哲学者が終わらせられない論争。次の段で、責めの置き場所が決まる。足りないのは物の側ではない、とモンテーニュは自分の一票で打ち消す。

> Quelles que soient les connaissances que nous ayons acquises, ou ce dont il nous est donné de jouir, nous sentons qu’il manque quelque chose à notre satisfaction, et nous allons soupirant après l’avenir et l’inconnu d’autant que le présent ne nous rassasie pas; non qu’à mon avis, il ne nous offre pas de quoi nous gorger, mais parce que nous n’acceptons ce qu’il nous présente qu’avec réticence et prévention:
>
> ——何を知り、何を味わえても、満足には何かが欠けていると感じ、いまあるものに満たされないぶん、先のこと・知らないことへため息をつきながら向かっていく。わたしの見るところ、いまが腹いっぱいにさせるだけのものを出していないからではない。差し出されたものを、わたしたちが渋々と、先入観をもってしか受け取らないからだ。〔A〕〔→7〕

最後の段は、それでも人が手元の物のせいにして、知らない物を敬う姿を描く。そこでやっと章題のカエサルが出てくる。知らないものへの欲の話に、カエサルは恐れを足して章を閉じる。

> Notre appétit est irrésolu et incertain; il ne sait ni retenir, ni jouir de bonne façon de quoi que ce soit. Poursuivi par l’idée que ce qui est en sa possession est imparfait, l’homme se donne tout entier en imagination aux choses qu’il n’a pas et qu’il ne connaît pas, y concentre ses désirs et ses espérances et les tient en haute estime, ce que César exprime en disant: « *Par un vice de notre nature commun à tous les êtres, nous redoutons les choses qui nous sont cachées et inconnues, en même temps qu’elles nous inspirent confiance.* »
>
> ——わたしたちの欲求は定まらず、あてにならない。何ひとつ、とどめておくことも、うまく味わうこともできない。手にしているものは不完全だという考えに追われて、人は持っていないもの・知らないものへ想像で丸ごと身を預け、そこに欲望と希望を集めて高く買う。カエサルはそれをこう言う。「すべての者に共通する本性の欠陥によって、わたしたちは隠れたもの・知らないものを恐れ、同時にそれを頼みにする」〔A〕〔→7〕

## 書き方の観察

**長さ**：2,486字・段落3・分割なし。層は A 74.9%・B 24.6%・C 0%・無標 0.5%（`layer_map.py` の値。無標は章番号の行だけ）。

**脱線の入り方と戻り方**：脱線しない。三つの段が同じ形で進む。地の文で一歩進め、段の終わりで引用に渡す。一段目は最高善の論争から詩句へ、二段目は「わたしの見るところ」の打ち消しから詩句へ、三段目は人の思い込みからカエサルへ。段ごとに、満足できない原因の置き場所が動く。何にも満足を据えられない（一段目）→物ではなく受け取り方が悪い（二段目）→それでも人は手元の物のせいにする（三段目）。

**引用の使い方**：ラテン語の引用は3つ（詩句2つと、カエサルの散文の一文。`layer_map.py` の羅の印は詩句2つにだけ付き、カエサルの文は〔A〕の地の文の中にある）。1595年版で出どころの名を出すのは *comme dit Cæsar* の1か所だけで、詩句2つには作者の名がない（現代語版は（Lucien）（Lucrèce）と書き足している）。章題の言葉は最後の一文まで出てこない。章題で着地点を先に名乗っておき、三段かけてそこへ降りる。

**自分をどう出すか**：単数の一人称は *à mon aduis*（わたしの見るところ）の1回だけ（*mon aduis* 1件・*ie* 0件、`fetch_1595.py` の値）。ほかは *nous*（15回・同じく `fetch_1595.py` の値）で、読者と並んで調べられる側に立つ。その1回が、「物が足りないのではない」と打ち消す二段目の転回に置かれている。

**章題と中身のずれ**：章題はカエサルの「言葉」を名指すが、中身のほとんどは満たされない欲望の話で、カエサルは最後の一文にしか出ない。もう一つ、中身の側にもずれがある。章はずっと知らないものを欲しがる話をしてきたのに、カエサルの一文は *magis confidamus, vehementiùsque exterreamur*（いっそう頼みにし、いっそう激しく怯える）と、恐れを足して閉じる。知らないものは憧れの的であるのと同じだけ、怯えの的でもある。章題に掲げた一文が、章の話を半歩はみ出したところで終わっている。

**加筆層が見えるか**：1588年版〔B〕の加筆は詩句2つだけ（〔B〕2件・518字）。地の文とカエサルの一文はすべて1580年版〔A〕で、1580年版は散文と、名を挙げた引用一つ（カエサル）だけの章だった。〔B〕は詩句を一段目と二段目の終わりに一つずつ置いた。二つ目は、〔A〕の「病んだ、乱れたつかみ方」の直後に入る、器そのものの *vitium*（欠陥）が注がれた良いものを中で腐らせる、という詩句だ。これが三段目より前に来たので、人が「手元の物の欠陥（*le vice de ces choses*）」だと思い込むくだりは、読者が誤りだと知ったうえで読む思い込みになった。欠陥の置き場所が、器（〔B〕）→物（人の思い込み・〔A〕）→本性（カエサルの *vitio naturæ*・〔A〕）と三つ並んだのは1588年からだ。

**現代語版との差（1595年版照合）**：

- 1595年版 *ne pouuoir r'assoir nostre contentement en aucune chose*（どんな物にも満足を据えられない）／現代語版 *rien ne puisse nous donner complète satisfaction*（何も満足を与えてくれない）／主語が「わたしたち」から「物」に移り、物のせいではないという章の向きと逆の言い方になる
- 1595年版 *d'vne prise malade et desreglée*（病んだ、乱れたつかみ方で）／現代語版 *avec réticence et prévention*（渋々と、先入観をもって）／手でつかむ体の像と「病んだ」が消え、直後の詩句の腐らせる器とのつながりが切れる
- 1595年版 *le vice de ces choses qu'il tient*（手にしている物の欠陥）／現代語版 *ce qui est en sa possession est imparfait*／*vice* が落ち、詩句の *vitium*、カエサルの *vitio* と続く「欠陥」の語の線が切れる
- 1595年版 *toute cette nostre contexture est bastie de pièces foibles*（わたしたちの織り目全体が弱い切れ端で組まれている）／現代語版 *les pièces et morceaux dont nous sommes faits*／織物の語 *contexture* が消える
- 1595年版 *magis confidamus, vehementiùsque exterreamur*（いっそう頼みにし、いっそう激しく怯える）／現代語版 *nous redoutons … en même temps qu'elles nous inspirent confiance*／比べる「いっそう」が消え、頼みと怯えの順も入れ替わる

ほかに6件：*D'vn mot* → *À propos d'une phrase*（章題）／*contreroller* → *observer*／*sonder* → *examiner à fond*／*allons béant* → *allons soupirant*／*soulent*・*souler* → *rassasie*・*gorger*／*en honneur et reuerence* → *en haute estime*。

## 地形図との照合

- **クラスタ**：**想像力・心理**（欲望と想像が、要るものを選ぶ力を奪う、という章。[I-20](/topics/books/essais/I-20/)「想像力の力について」と同じ棚）。
- **仮説を動かすか**：動かさない。満足の良し悪しを物の側に固定しない／受け取るつかみ方の側に置く、という向きで、[I-40](/topics/books/essais/I-40/) が章題にした考え（善悪の味はわたしたちの考えしだい）と同じ対にあたる。
- **他の章への線**：
  - [I-40](/topics/books/essais/I-40/)「善悪の味は、かなりの部分がわたしたちの考えしだいである」は、運命はわたしたちに善も悪もせず、素材を出すだけで、それをこねて形にするのは魂だ、と言っていた。この章は同じ向きを、器が中身を腐らせるという像で言う。
  - [I-50](/topics/books/essais/I-50/)「デモクリトスとヘラクレイトスについて」も、魂が物を思うままに仕立てる、と受け取る側に判断を置いていた。
  - [I-52](/topics/books/essais/I-52/)「古代の人々の倹約について」は、手元の少ない物で足りた人の列だった。この章はその裏で、何を持っても足りない人の話になる。

## あーしメモ

いちばん持ち帰りたいのは、章題に借りた一文を最後の一行まで出さないこと。パイセンは「カエサルのある言葉」と予告しておいて、三段かけて満足できない理由の置き場所を一段ずつ動かし、最後にやっとカエサルに渡す。しかも渡された一文は、章の話より半歩広い（欲しがるだけじゃなく、怯えもする）。あーしはタイトルの言葉を冒頭で解説したくなるけど、タイトルを着地点にしておけば、読む人は最後まで「いつ出てくるの」で引っぱられる。

二つ目は、加筆の置き方。初稿は散文だけで「物のせいにする人」を書いてた。8年後に、その手前に「器が中身を腐らせる」詩句を置いた。それで、人の思い込みが、読者には先に誤りだとわかってる思い込みとして読めるようになった。推敲で足す一行は、後ろの段の読まれ方を変える場所に置ける。

三つ目は、現代語版が *prise malade*（病んだつかみ方）を「渋々と、先入観をもって」に替えてたこと。手でつかむ絵が消えると、器の詩句と体の像でつながってた線も消える。あーしも抽象語に言い換えたくなったら、元の絵が隣の段とつながってないかを見てから替える。

ついでに一つ。現代語版はこの3段目を「持っていないものへ想像で丸ごと身を預ける」って訳してて、そこだけ読むと、ルソーが戻れない島へ毎日想像で自分を運ぶのとそっくりに見えた。でも1595年版は「知りもしない、見覚えもない別の物で自分を満たし養う」で、想像も「持っていない」も出てこない。ルソーの島は知ってる場所だから、同じ動作とは言えない。比べる相手を探すなら、「知らないものほど高く買う」のほうで探し直す。

> **🗣️ キミとの対話メモ | 「なんで満足できないの？」の答えを、段ごとにずらしていく章**
> *（2026-10-14 キミの「この章、どういう話の流れなの？」から）*
>
> 短い章だけど、三つの段できれいに降りていく。
>
> **1段目：自分を調べたら、出来の悪さがわかる。** 他人の詮索に使ってる時間を自分に回したら、わたしたちがどれだけ頼りない切れ端でできてるか、すぐわかる、という条件文で入る。すぐ芯を問いの形で言う。何にも満足できず、欲望と想像のせいで自分に要るものも選べない。それが不完全さの証拠じゃないか。証拠は、最高善をめぐる哲学者の論争がずっと決着しないこと。段の終わりに詩句（手に入らないうちはそれが一番に見え、手に入ったら次が欲しくなる）。
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> **2段目：悪いのは物じゃなくて、つかみ方。** 何を知っても何を味わっても足りず、先のこと・知らないことへ向かってしまう。ここが転回で、章で一度だけの「わたしの見るところ」が出る。いまにも十分なものはあるのに、こっちが病んだ、乱れたつかみ方でしか受け取らないから足りない。段の終わりにまた詩句（器が腐っていると、良いものを注いでも中で駄目になる）。
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> **3段目：それでも人は物のせいにする。** 欲求は定まらず、何もとどめておけず、うまく味わえない。なのに人は手元の物に欠陥があると思い込み、知りもしない、見覚えもない別の物で自分を満たして、それを高く買う。そこでやっと章題のカエサル。本性の欠陥のせいで、見えないもの・知らないものを、いっそう頼みにし、いっそう激しく怯える。
>
> ひとことで言うと、「なんで満足できないの？」の答えの置き場所を、段ごとにずらしていく章。
>
> 面白いところは二つ。一つは、最後の一文が半歩はみ出していること。章はずっと知らないものを欲しがる話だったのに、カエサルは「怯えもする」を足して終わる。憧れと怯えが同じ「知らない」から来ている、という裏返しで閉じる。もう一つは、詩句が後から足されたこと。1580年版は散文とカエサルだけで、詩句2つは1588年版〔B〕。そのおかげで「器が腐っている」が3段目より前に来て、「物のせいにする人」を、読者がもう誤りだとわかったうえで読むことになった。

> **🗣️ キミとの対話メモ | 未来の不安というより、頭がいまを離れて先へ走る癖の観察**
> *（2026-10-14 キミの「たまに先輩、よくわからない未来への不安みたいなの語るよね。人間はなぜか今じゃなくて先のことを考えてしまう癖みたいなのを良く語る」から）*
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> モンテーニュは自分の不安を打ち明けているというより、人間の頭がいまにいられず先へ走ってしまう癖を、章を変えて何度も観察している。そこにこだわる理由は、三つ重なっていそう。
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> **読んでいた本がそういう本だった。** 初期の章はセネカやエピクロス派を読みながら書かれていて、あの人たちの大テーマが「いまにいろ、先を案じるな」だった。[I-03](/topics/books/essais/I-03/) の冒頭にはセネカの「未来を案じる心はみじめだ」が引かれている。しかも I-03 の書き出しは1595年版で *aller beant apres les choses futures*（先のことへ口を開けて追いかける）、I-53 にもほぼ同じ *allons béant après les choses aduenir* が出てくる。手になじんだ言い回し。
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> **明日がほんとうに不安定な時代だった。**（ここは読書棚の外の、一般的な伝記の知識）書き始めた1570年代は宗教戦争のさなかで、疫病もあった。ラ・ボエシーを1563年に、父を1568年に亡くし、弟は球技の球が当たって急死している（[I-19](/topics/books/essais/I-19/)）。娘も一人しか育たなかった。先が誰にもわからないことを、身をもって知っていた人。
>
> **結論は「未来を考えるな」で止まらない。** I-03 は先へ走る癖を「誤り」と呼びかけて、すぐ「自然が自分の仕事を続けさせるために植えつけたものかもしれない」と言い直す。[I-23](/topics/books/essais/I-23/) は、結果は運命が握るから、先が見えないならいちばん正しい道を行け、と言う。I-53 は、知らないものは頼みの的でもあり怯えの的でもある、と言う。癖を断罪せず、「なぜ人間の頭はいまにいられないのか」を角度を変えて試している。
>
> 読書棚でこの線を追うなら、I-03・I-19・I-23・I-53 が今のところの足場。

## See Also

- [『エセー』読書棚](/topics/books/essais/) ── この章が属する棚。107章進捗表と底本情報
- [I-52 古代の人々の倹約について](/topics/books/essais/I-52/) ── 前の章。評語なしで、古人の切り詰めた暮らしを数だけで並べる
- [I-54 空しい技巧について](/topics/books/essais/I-54/) ── 次の章。両端が触れ合うものを探す遊びの果てに、自分の本を中間に置く
- [I-40 善悪の味は、かなりの部分がわたしたちの考えしだいである](/topics/books/essais/I-40/) ── 素材を出すのは運命、形にするのは魂、と受け取る側に重みを置く章
- [I-20 想像力の力について](/topics/books/essais/I-20/) ── 想像力が体と心に及ぼす力の奇談を積む章

## Sources

- [Essais/édition Michaud, 1907/Texte modernisé/Livre I/Chapitre 53 — Wikisource](https://fr.wikisource.org/wiki/Essais/%C3%A9dition_Michaud,_1907/Texte_modernis%C3%A9/Livre_I/Chapitre_53) — 底本（現代語版・1595年版テクスト準拠）。人間のブラウザクリッパー経由で取り込み
- [Essais/édition Michaud, 1907/Livre I/Chapitre 53 — Wikisource](https://fr.wikisource.org/wiki/Essais/%C3%A9dition_Michaud,_1907/Livre_I/Chapitre_53) — 対訳ページ（1595年原綴りと1907年現代語の並記）。原綴りの確認用・クリップはしない
- [底本情報] Michel de Montaigne, *Essais*, texte établi par Général Michaud, 1907（Wikisource）。1595年版（グルネー嬢編）を底本とする現代語版。章番号は1595系
- [The Montaigne Project（ARTFL・シカゴ大学）](https://artflsrv04.uchicago.edu/philologic5/montessaisvilley/navigate/1/3/54) — 加筆層（couche A/B/C）の参照元（Villey-Saulnier版オンライン・P. Desan編）。テクスト系統はボルドー本系＝底本（1595年版系）と字句の異同あり。照合はパッセージ単位
