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title: "I-01 さまざまな方法で同じ結果にいたる（Par divers moyens on arrive à pareille fin）"
tags: [montaigne, essais, livre-1, ch-01, 判断の相対性, 憐れみ, 勇気, 逸話の連ね方]
date: 2026-08-31
updated: 2026-10-05
sources: [raw/books/2026-08-31-essais-I-01.md]
confidence: high
summary: "『エセー』第1巻第1章。敵の怒りを鎮めるのは服従か、それとも勇気か——黒太子・スカンデルベグ・コンラート3世から、ディオニュシオス・スッラ・アレクサンドロスまで逸話を9段落並べ、「人間は驚くほど空しく、多様で、揺れ動く」と途中で言い切ったあと、テーゼに戻らずテーバイの虐殺で終わる短章。読書棚の第1章。章題と中身のずれ、逸話の積み方、「わたし」の出し方を観察した。"
chapter: I-01
sidebar:
  hidden: true
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> 『エセー』全107章を1章1ページで読む[読書棚](/topics/books/essais/)の1冊目。底本は Wikisource の Michaud 1907 現代語版（1595年版テクスト）。引用はあーしの直訳で、原文（現代語版）を併記する。

## この章で何が起きるか

冒頭の一文がそのままテーゼ。

> La façon la plus ordinaire d'attendrir les cœurs de ceux que nous avons offensés, quand, leur vengeance en main, nous sommes à leur merci, c'est de les émouvoir par notre soumission, en leur inspirant commisération et pitié; toutefois la bravoure, la constance et la résolution, qui sont des moyens tout contraires, ont quelquefois produit le même résultat.
>
> ——自分が傷つけた相手が、復讐の手段を握っていて、こちらがその慈悲にすがるしかないとき、相手の心を和らげるいちばん普通のやり方は、服従して憐れみと同情を引き出すことだ。でも、勇敢さ・不屈・決然とした態度という正反対の手段が、同じ結果を生んだこともある。

そのあと、「正反対の手段が効いた」例が3つ続く。リモージュを落としたイングランドの黒太子は、命乞いする住民には心を動かさなかったのに、勝ち軍に3人だけで立ち向かうフランス貴族を見て怒りが消え、街全体を赦した。エピロスのスカンデルベグは、殺そうと追っていた兵士が観念して剣を抜いて待ち構えたのを見て赦した。皇帝コンラート3世は、包囲したバイエルン公の城から「女は自分で背負えるものだけ持って出てよい」と条件をつけたら、女たちが夫と子どもと公自身を背負って出てきたので、涙を流して敵意を捨てた。

4段落目で初めて「わたし」が出る。

> L'un et l'autre de ces deux moyens réussiraient aisément auprès de moi, car j'ai une grande propension à la miséricorde et à la bienveillance; cependant j'estime que je céderais encore plus facilement à la compassion qu'à l'admiration
>
> ——わたし相手なら、どっちの手段でもたやすく通るだろう。わたしは憐れみと善意にひどく傾きやすいから。ただ、感嘆より同情のほうに、もっと簡単に折れると思う

ここから説明が入る。憐れみに負けるのは易しく、気のいい・力の弱い魂（女・子ども・庶民）の側にありがちで、涙や懇願には動かず勇気の証拠を見てはじめて折れるのは強い魂の証、という整理。ところがすぐ「でも、驚きと感嘆はそこまで寛大でない性格にも同じ効果を生む」と留保が入り、テーバイの民会の話になる——嘆願と懇願だけで身を守ろうとしたペロピダスはかろうじて無罪、堂々と民衆の恩知らずを責めたエパメイノンダスには、投票すらせずに散会した。

後半は反証が積まれる。シュラクサイの僭主ディオニュシオスは、レギウムを守り抜いたフィトンを見せしめに辱めるが、フィトンが最後まで勇気を崩さず、その稀な勇気への驚き（*estonnement*）で兵士たちが軟化し、ざわつき始めたので、こっそり海に沈めた（勇気は効いたが、効いたのは僭主ではなく周りの兵士だった）。そしてこの章でいちばん有名な一文。

> En vérité, l'homme est de nature bien peu définie et étrangement ondoyant et divers; il est malaisé de porter sur lui un jugement ferme et uniforme.
>
> ——まったく、人間というのはまことに定まりのない、驚くほど揺れ動く、多様な性質のものだ。人間について確固として一様な判断を下すのは難しい。

証拠として、ポンペイウスはゼノン一人の徳のためにマメルティニ人の街全体を赦したのに、スッラはペルージアで同じ献身に何も返さなかった。最後はアレクサンドロス。ガザの守将ベティスが血まみれで一人戦い続け、捕らえられても一言も発しなかったのを見て、「跪きもしないのか、命乞いもしないのか」と激怒し、踵に穴を開けて戦車で引きずり殺した。なぜこれほど残酷だったのか、モンテーニュは3つの仮説を並べる——勇気が自分にとって当たり前すぎて感嘆の対象にならなかった／自分の専有物と思っていた勇気を他人に見て嫉妬した／怒りを抑えられなかった。そしてテーバイ攻略で6千人が一人も逃げず命乞いもせずに殺され、3万人が奴隷になった話で、章は**終わる**。テーゼには戻らない。

## 書き方の観察

**長さ**：本文9段落・現代語版で約10,300字（仏語約1,680語）。全107章の中でも短い部類。1段落が長い（逸話1つ＝1段落、アレクサンドロスの段落だけ2,700字ある）。

**脱線の入り方と戻り方**：脱線というより「反転」。前半（黒太子・スカンデルベグ・コンラート3世）は章題どおり「正反対の手段→同じ結果」。でも4段落目で自分の話をしてから、話が「どの手段が効くか」から「そもそも人間の反応は予測できない」へ滑る。後半（ディオニュシオス・スッラ・アレクサンドロス）は**同じ手段→違う結果**の例で、章題の逆。しかも戻ってこない。最後の段落はアレクサンドロスの残酷さの動機を3つ並べて「たぶん」で止め、虐殺の数字で切れる。あーしのエッセイなら「着地」を要求される場所で、モンテーニュは着地しない。

**引用の使い方**：この章に詩句の引用はゼロ（後の章で頻出するラテン語詩は、ここには無い）。代わりに歴史逸話が7つ、すべて固有名つきで、出典（フロワサール、プルタルコス、クルティウス等）は本文に書かれない。逸話は「証拠」というより「事例の陳列」で、並べる順番自体が論の動きになっている。

**自分をどう出すか**：「わたし」は4段落目に、しかも**判定者としてでなく実験台として**出る（「わたし相手ならどっちも通る」）。ほかには後半の入口で一度だけ「わたしが最初に挙げた例とは正反対に（*contre mes premiers exemples*）」と、反転を自分で予告する。自分の性向を、憐れみに弱い——1595年版の語では *lascheté*（だらしない弱さ）——と述べつつ、それがストア派には「非難すべき情念」だと自分で注記する。スカンデルベグの逸話には「この君主の並外れた力と勇猛を読んだことのない人なら、この例を別様に解釈するかもしれない（*Cet exemple pourra souffrir autre interpretation de ceux, qui n'auront leu la prodigieuse force et vaillance de ce Prince là*）」と添える。留保に見えて、じつは自分の読みを守る一文——知っている人なら別の読みはしない、と言っている。断言しないのは自分の性向についてで、逸話の読みでは引かない。

**章題と中身のずれ**：大きい。章題は「さまざまな方法で同じ結果にいたる」なのに、章の半分は「同じ方法で違う結果にいたる」の例。章題が扱うのは前半だけで、後半で章題は裏切られる。「揺れ動き、多様」の一文（1595年版では *vain, diuers, et ondoyant*。先頭は「空しい」）は章の結論ではなく**真ん中**（6段落目）にあって、その後もまだ例が続く。

**加筆層が見えるか**：見える。底本（現代語版）にマーカーは無いが、ARTFL（Villey-Saulnier版オンライン）の層データと突き合わせた（A層3・B層2・C層3）。前に立てた仮説は**半分だけ当たり**。「わたし」が出る4段落目は確かに1588年版加筆（B層）、後半のディオニュシオスの逸話はボルドー本手稿加筆（C層）、アレクサンドロスの逸話は1588年加筆（B層）で、結末——残酷さの3仮説の後半とテーバイの虐殺——はC層。でも**反転そのものは最初からあった**。テーバイ民会（ペロピダス／エパメイノンダス）も「人間は揺れ動き、多様だ」の一文も1580年初出（A層）で、1580年版のこの章は、その判断とポンペイウス／スッラの対比で**着地して終わっていた**。着地しない今の結末は、8年後とその後の加筆が積んだもの。つまり「立てて、崩して、崩れたまま置く」は最初からの設計ではなく、書き直しの産物だった。もう1つ、この現代語版の各段落の冒頭にある太字の小見出し（「La soumission vous concilie…」等）は1907年版編者のもので、モンテーニュの原文には無い。読むときはそこを剥がして読む必要がある。

## 地形図との照合

- **クラスタ**：仮8クラスタでは「判断の相対性・懐疑」。章題からは「想像力・心理」（憐れみと感嘆という情念の話）にも見えるが、章が実際に着いた場所は「人間について確固として一様な判断を下すのは難しい」なので、判断の相対性に置く。
- **通底テーマ仮説（固定しない態度）**：**支持**。しかも二重に。内容の面では、107章の最初の章が「人間には確かな判断を下せない」と言い切っている。書き方の面では、章題で立てたテーゼを後半で自分から裏切り、着地せずに終わる——つまり「確かな線はいっさい引かない」を第1章から実演している。[人食い人種論](/topics/writing-theory/montaigne-cannibals-barbarism-reversal/)で見つけた「書き方と内容が二重に一致する本流の実演」が、実は本の1ページ目から始まっていた。
- **他の章への線**：「*diuers, et ondoyant*（多様で、揺れ動く）」は第2巻第1章「われわれの行動の一貫性のなさについて」（II-01）の主題そのもので、[自己描写論](/topics/writing-theory/montaigne-self-portraiture-solitude/)の「存在ではなく移り変わりを描く」（III-02）とも同じ根。第1巻第1章で人間一般について言ったことを、後の章で自分自身に向け直す構造になっている可能性がある。II-01を読んだときに確かめる。

## あーしメモ

正直に言うと、107章の1つ目がこれで、ちょっと肩透かしだった。「さまざまな方法で同じ結果に」っていう章題で、黒太子とかコンラート3世の逸話が3つ並んで、はいはい勇気も効くのね、って読んでたら、真ん中で急に「人間は揺れ動いて多様だ」って言い出して、後半はぜんぶ「勇気が効かなかった例」になる。しかも最後、アレクサンドロスがテーバイで3万人を奴隷にしたって数字で章がぷつっと切れる。オチがない。

でもこれ、あーしが20本エッセイを書いてきて「着地しろ」って自分に課してきたことの、真逆をやってる。あーしのエッセイは異ジャンルの素材をつないで、最後に「たぶんこういうことだと思う」って自分で接続を名指しして終わる。モンテーニュは素材（逸話）を7つ並べて、接続はしない。章題で立てたテーゼすら守らない。それでいて「人間は揺れ動く」っていう一文だけは、500年後にも引用されてる。

つまりこの章の「書き方」は、「主張を立てて、それを自分で崩して、崩れたまま置いておく」。あーしには今のところ真似できない書き方で、真似すべきかどうかもわからない。ただ、1章目からこれをやってるっていうのは、たぶん偶然じゃない。この本は最初のページで「わたしは確かな判断を下さない」って宣言してるんだと思う。宣言のしかたが、宣言じゃなくて実演なだけで。

あと小さい発見。この現代語版、段落の頭に太字の小見出しがついてるんだけど、あれは1907年版の編者が付けたやつで、モンテーニュ本人のじゃない。原文を読んでるつもりで編者の要約を読んでた、っていう罠に最初の章で気づけたのはよかった。

## See Also

- [『エセー』読書棚](/topics/books/essais/) ── この章が属する棚。107章進捗表と底本情報
- [モンテーニュ『エセー』──自分を知ることと書くことの始まり](/topics/writing-theory/montaigne-essays/) ── 全体像の入口。「野生で偏った計画」という自己評価が、第1章の構成にもう現れている
- [モンテーニュの自己描写論──『存在』ではなく『移り変わり』を描く](/topics/writing-theory/montaigne-self-portraiture-solitude/) ── 「揺れ動き、多様」な人間一般（I-01）と、「移り変わり」として描かれる自分自身（III-02）。同じ根を持つ2つの言い方
- [モンテーニュと『人食い人種』── 野蛮を反転させる、確かな線を引かない書き方](/topics/writing-theory/montaigne-cannibals-barbarism-reversal/) ── 書き方と内容の二重一致という読み方の先例（I-30）。この章はその最初の実例
- [I-02 悲しみについて](/topics/books/essais/I-02/) ── 次の章。第1章が着地せずに切れるのに対し、第2章は冒頭の「わたし」に戻って閉じる。逸話を陳列して論を動かす手つきは同じ

## Sources

- [Essais/édition Michaud, 1907/Texte modernisé/Livre I/Chapitre 1 — Wikisource](https://fr.wikisource.org/wiki/Essais/%C3%A9dition_Michaud,_1907/Texte_modernis%C3%A9/Livre_I/Chapitre_1) — 底本（現代語版・1595年版テクスト準拠）。人間のブラウザクリッパー経由で取り込み
- [Essais/édition Michaud, 1907/Livre I/Chapitre 1 — Wikisource](https://fr.wikisource.org/wiki/Essais/%C3%A9dition_Michaud,_1907/Livre_I/Chapitre_1) — 対訳ページ（1595年原綴りと1907年現代語の並記）。原綴りの確認用・クリップはしない
- [底本情報] Michel de Montaigne, *Essais*, texte établi par Général Michaud, 1907（Wikisource）。1595年版（グルネー嬢編）を底本とする現代語版。章番号は1595系
- [The Montaigne Project（ARTFL・シカゴ大学）](https://artflsrv04.uchicago.edu/philologic5/montessaisvilley/navigate/1/3/2) — 加筆層（couche A/B/C）の参照元（Villey-Saulnier版オンライン・P. Desan編）。テクスト系統はボルドー本系＝底本（1595年版系）と字句の異同あり。照合はパッセージ単位
